2021/09/09
お城の現場より〜発掘・復元最前線 第35回【浜田城】第二次幕長戦争で焼け落ちた二ノ門
城郭の発掘・整備の最新情報をお届けする「お城の現場より〜発掘・復元・整備の最前線」。第35回は、江戸時代の初めから終わりまで、約250年の間、浜田藩を見守ってきた浜田城(島根県浜田市)。第二次幕長戦争での焼失を証明する二ノ門の遺構や、築城のルーツを示す大量の瓦の発見など、激動の歴史を物語る浜田城の発掘調査について島根県浜田市教育員会文化スポーツ課の藤田大輔さんが紹介します。
第二次幕長戦争(長州征討)で落城し約250年の歴史に終止符が打たれた
浜田城は標高67mの丘陵に築かれ、北側は日本海に通じる松原湾に接し、南側と西側には浜田川が流れる。海を意識して選地された浜田城からは、往時、北前船が行き来する浜田藩最大の湊である外ノ浦が眼下に望め、また海上からは天守となる重厚な三重櫓がそびえるように見えた。
浜田城の立地。手前の丘陵が浜田城で、写真中央に伸びる入江が外ノ浦、左には日本海が広がる
元和5年(1619)、当時松坂城主であった古田重治が5万4千石で石見国浜田への転封となり、浜田藩が成立する。築城は翌年から開始され、元和9年(1623)には城及び城下が整ったとされている。古田家以後は、松井松平家(前期)、本多中務家、松井松平家(後期)、越智松平家と藩主が変わる。浜田城は、慶応2年(1866)の第二次幕長戦争で落城し、藩主たちは飛地であった美作国久米に移り、鶴田(たづた)藩と改称し明治を迎える。
浜田城の縄張
①三重櫓②玉櫓③六間長屋④本丸一ノ門⑤二ノ門⑥出丸⑦焔硝蔵
⑧中ノ門⑨裏門⑩大手門⑪御殿⑫南御殿⑬茶屋⑭庭園⑮船蔵
浜田藩成立から400年を数える令和元年(2019)に浜田開府400年記念事業が実施された。この記念事業の中には城山公園整備も含まれ、整備に先立つ2016年から2019年にかけて、浜田市教育委員会により浜田城の発掘調査が行われた。浜田城の発掘調査は、それまで山麓部では実施されていたが、本丸などが所在する山頂部では初めてのことであった。
浜田城主要部復元CG(復元:三浦正幸/CG制作:株式会社エス/浜田市教育委員会提供)
二ノ門の焼失を裏付ける遺物が次々と発見
発掘調査の成果の一つとして、浜田城落城の様子を如実に物語る状況が確認された。山頂部の本丸から一段下がった二ノ門跡の調査区においてである。普段、来城者が歩く地面の下20cmに、二次被熱を受けた瓦や陶器、炭化したマツやタケの建築部材を含む焼土層が存在していたのである。二次被熱を受けた瓦は、本来表面を覆っていたはずの黒色の燻(いぶ)しが剥がれ落ち赤褐色となり、陶器は、滑らかな手触りとはほど遠いざらざらした触感である。厚さ10~30cmの焼土層を取り除くと、門の礎石2基、階段、排水溝、敷石といった二ノ門の遺構が検出された。西側の礎石上には、炭化して真っ黒になったマツ材の柱根が遺存しており、年輪もはっきりと確認できた。焼土層から出土した陶器は幕末のものであり、この焼土層は二ノ門が幕末に大規模な火災を受けたことを意味する。
浜田城の終焉は、慶応2年(1866)の第二次幕長戦争による落城であり、近世から近代に至る歴史的な戦争の舞台の一つにもなった。当時の長州側の史料には、本丸の三重櫓は無事であったが、二ノ門が立地する二ノ郭や三ノ郭は焼失したとあり、二ノ門の発掘調査成果は、この史料の記述を裏付けるものであった。
二ノ門の遺構(写真左側の礎石上に炭化柱根、中央右には排水溝)
炭化した柱根
火災により赤褐色をした当時の地面と排水溝
また出丸部東側の調査では埋没石垣が検出された。これは明治期に陸軍歩兵第21連隊による公園化に伴い埋まっていたもので、城内には、近代以降に実施された公園整備を逃れた江戸時代の遺構がまだ眠っているかもしれない。
(左)埋没石垣の検出場所(奥側に石垣は続く)。(右)埋没石垣(近景)
発掘調査においては、大量の瓦が出土した。破片も含めて約7,250点、重量にして約1,150kgに上る。時期が明らかな遺構に伴う出土品は少なく、明確な時期決定はできないが、築城期瓦の手掛かりを示す軒平瓦(屋根の縁を飾る瓦)が1点だけ出土した。従来、築城期の瓦は大坂の職人が手掛けたとされており、そのことは築城の最中である元和8年(1622)の棟札にも記されている。出土した軒平瓦は、中心飾りが上向五葉文で平瓦部分に水切突起(雨水が建物に侵入するのを防ぐための突起)を備えたもので、この水切突起は、四天王寺系(大坂)と姫路系瓦工の瓦に見られる要素とされている。わずか1点のみの出土ではあるが、浜田城と大坂の職人を結び付ける遺物となった。
軒平瓦
二ノ門調査区出土の二次被熱の瓦
浜田開府400年記念事業の目玉である浜田市浜田城資料館が令和元年(2019)10月に開館した。明治40年(1907)の東宮殿下(後の大正天皇)山陰行啓時に宿泊施設として建設された御便殿(ごべんでん)を改装したものである。資料館には、浜田城のみならず、往時の浜田藩を支え、平成30年(2018)に日本遺産にも認定された外ノ浦の資料も展示してある。浜田城をよりよく知るためにも、浜田城に合わせて当資料館も訪れていただきたい。
浜田市浜田城資料館
浜田城(はまだじょう/島根県浜田市)
古田重治が元和6年(1620)より築城を行い、その後約250年の間、浜田藩の政庁となった。しかし慶応2年(1866)、第二次幕長戦争の際、長州藩の大村益次郎に追い詰められ落城。藩兵が自ら火をつけ退城したため天守以外のほとんどの建造物が焼失、天守も明治期に失われた。現在は石垣だけが残り、桜の名所として市民の憩いの場となっている。2017年には続日本100名城にも選ばれた。
執筆/藤田大輔(島根県浜田市教育員会文化スポーツ課)
写真提供/浜田市