2021/08/31
明智光秀とその周辺|小和田哲男 第3回 弘治2年(1556)の明智城の戦い
本能寺の変で織田信長を討った武将として知られ、2020年・2021年放送のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公として描かれた明智光秀。連載講座「明智光秀とその周辺」では、ドラマの時代考証を担当される小和田哲男先生が、光秀の生涯に影響を与えた人々や出来事に全12回でスポットライトを当てていきます。第3回は、斎藤義龍が長良川の戦いで自軍に加わらなかった光秀を討伐した「明智城の戦い」の真実に、残された記録を紐解きながら迫ります。(※2020年6月24日初回公開)
「明智光秀とその周辺|小和田哲男」
長良川の戦いと光秀
斎藤道三と子の義龍が戦った長良川の戦いは弘治2年(1556)4月20日のことだった。結果は、軍勢に勝る義龍軍の勝利で終わり、道三は義龍の家臣長井忠左衛門と小牧源太に首を取られている。

斎藤道三と子の義龍が雌雄を決した長良川古戦場(岐阜城天守から望む)
この長良川の戦いのとき、明智光秀はどうしていたのだろうか。実は、これがわからないのである。光秀の叔母にあたる小見の方が、各種系図に書かれているように道三に嫁いでいたとすれば、光秀も早い段階から道三に仕え、その薫陶を受けたと考えて当然である。今年のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』もそうした設定の流れとなっている。
もし、そうであれば、光秀は道三陣営の一人として出陣していてもよさそうであるが、出陣していた形跡はない。ふつう、このような場合、傍観ということはありえないので、何らかの事情があったのかもしれない。
ただ、義龍としてみれば、自軍に加わらなかった光秀を敵対者とみなしたものと思われる。そこで、家臣の長井隼人正を大将とする討伐軍を出陣させることになるが、ここでいくつかの疑問が生じてくる。
一つは、長良川の戦いが4月なのに、明智城攻めが9月にずれこんでいる点である。なぜ5ヵ月ものブランクがあるのか。もっとも、この疑問は、敵対勢力は明智氏だけではないので、他の敵対勢力を掃討するのに時間がかかり、結果として9月にずれこんだとみればいいのかもしれない。
もう一つの疑問は明智城の城主についてである。明智城の戦いについて書かれている『美濃国諸旧記』にしても『武功夜話』にしても、このときの明智城の城主を光秀とはせず、光秀の叔父にあたる明智光安(宗宿)としている点である。光秀の生年については諸説あるが、永正13年(1516)説をとれば41歳、享禄元年(1528)説をとっても29歳である。よくいわれるように、光秀と光安の関係は、「光秀がまだ幼かったので、叔父光安が光秀の後見役となった」というわけであるが、41歳ならもちろん、29歳でも立派に一本立ちできる年齢である。しかも光秀はすでに熙子と結婚している。
年齢的にも光秀が明智城の城主になっていてもおかしくないのに、光安が前面に出てきているのである。こちらの疑問はまだ解決されていない。
明智城の戦いの実際は
さて、明智城の戦いの模様は『美濃国諸旧記』によると、城を守る光安ら870の軍勢に対し、長井隼人正を大将とする攻城軍は3700という。9月19日に戦いがはじまり、翌20日に落城し、城兵は自害したとするが、注目されるのは、落城間際、光安が光秀をよんで、「我々生害せんと存ずる。御身定めて殉死の志なるべけれども、某等は不慮の儀にして斯くなり、家を断絶す。御身は、祖父の遺言もあり、又志も小ならねば、何卒爰を落ちて存命なし、明智の家名を立てられ候へ」と城を脱出させたというのである。
実際にこのようなことがあったかどうかはわからないが、光秀は城を脱出したことは事実である。なお、明智城の戦いのことは『武功夜話』にもみえる。21巻本と3巻本で記述にちがいがあり、21巻本の方は、土岐氏の一族長井甲斐守が明智城を攻めたとし、3巻本の方は、明智氏が織田氏と通じたので、義龍が長井隼人正を大将として明智城を攻めさせたとしている。落城の日を9月25日とする。
『美濃国諸旧記』にしても『武功夜話』にしても、戦いのあった明智城がどこなのかは特定していない。可児市瀬田の明智城址には、このときの戦いで討ち死にした者の霊を祀ったという「七つ塚」がある。

明智城の落城時に戦死した武将を葬った七つ塚
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執筆/小和田哲男(おわだてつお)
公益財団法人日本城郭協会 理事長
日本中世史、特に戦国時代史研究の第一人者として知られる。1944年生。静岡市出身。1972年、早稲田大学大学院文学研究科 博士課程修了。静岡大学教育学部専任講師、教授などを経て、同大学名誉教授。
著書 『戦国武将の手紙を読む 浮かびあがる人間模様』(中央公論新社、2010)
『明智光秀・秀満』(ミネルヴァ書房、2019)ほか多数









