真田一族の城|平山優 第3回 真田幸綱の本拠地はどこか

大河ドラマ「真田丸」の時代考証を担当した歴史学者・平山優先生による「真田一族の城」をテーマとした講座。武田信玄から真田郷を与えられた真田幸綱は、どこに屋敷を構え、所領経営に当たったのかー。第3回は、幸綱の本拠地を探ります。

真田幸綱は、実は真田家の本家筋ではない。そのことが、幸綱の真田郷復帰後の本拠地選定に大きな影響があったと推定されることを前回までの連載で指摘した。ならば、兄真田右馬允綱吉を差し置く形で、武田信玄に抜擢され、真田郷を与えられた真田幸綱は、いったいどこに屋敷を構え、所領経営に当たったのだろうか。

それを示す手がかりが、江戸時代に成立した地誌『塊鑑』(つちくれかがみ)にある。そこには、「真田村長谷寺、真田の町より十四町東のかなたなり、細道を行く、その間に町より少し上がりて道の北の方に、真田屋敷と云う所あり」との記事がみえる。

真田氏館、推定地付近概要図、真田町誌
山家の真田氏館跡推定地付近概要図(出典:『真田町誌』歴史編上、提供:上田市真田地域教育事務所)

ここにみえる「真田屋敷」は、山家と呼ばれる地域にあり、それは真田幸綱の菩提寺長谷寺の麓、山家神社に隣接する「ごっつあ」(江沢、郷沢)と呼称される場所に伝わる。これが山家の真田屋敷である。この場所は、長谷寺から麓にかけての傾斜面であるが、直角に折れ曲がる用水路が四囲を廻る一段高いところで、その規模は南北約100m、東西約70mを測る。この規模は、中部地方では中世豪族の屋敷跡によくみられる。今では開発が進んでしまったため、痕跡がはっきりしないが、用水路沿いに土塁跡や矢竹の茂みがわずかに残されている。この場所を地籍図でみてみると、周囲を囲む用水路は直角に区画され、人為的にこの長方形の場所を取り囲むように造られたことが明瞭だ。つまり、この用水路は、山家郷一帯の農業を支えるとともに、屋敷を守る堀の役割も果たしていたわけだ。

真田氏館、推定地の地籍図、真田町誌
山家の真田氏館跡推定地の地籍図(出典:『真田町誌』歴史編上、提供:上田市真田地域教育事務所)

さらに、嘉永3年(1850)頃の成立と推定される「真田村絵図」(長野県立歴史館所蔵「細田家文書」)、慶応3年(1867)成立の「真田村絵図」(「洗馬組村絵図」の一部、上田市立博物館蔵)を比較して検討すると、屋敷跡推定地周辺の様子がある程度復元することができる。まず屋敷跡推定地の下、神川に沿って上州道が走っているが、そこには中町・上町があり、それぞれの入り口は道がクランクしていて、番小屋があったと記録されている。しかも、このクランク付近は、中町入口に「虎口ノハシ、古口」、上町入口に「枡形」の注記がある。中世の市・町や城下の入口では、道がクランスしていることが多いのはよく知られているが、山家の真田屋敷に隣接する町場の二つの入口がクランクしているばかりか、防御施設を意味する虎口、枡形と呼ばれていたのは興味深い。

また、上州道の一部は、「小路」「下小路」、真田屋敷前を南北に横切る古道には「上道」と呼ばれていた。これも中世の町場地名に広くみられるものだ。そして、上州道沿いに展開していた上町と中町の境界付近から、真田屋敷に向かって道が延びており、しかも途中それはクランクしていた。そして上州道、町場と真田屋敷を結ぶ道は「タツ道」と記される。「タツ道」は「館道」のこととみられ、領主の城や館につながるメインストリートであることを示唆する貴重な呼称だ。なおこの「タツ道」は、本原の真田氏館跡にも伝承されている。

真田氏館、真田氏館跡付近
山家の真田氏館跡付近(提供:上田市真田地域教育事務所)

このように、山家の真田屋敷跡周辺は、上州道を取り込む形で、それなりに整備、区画された中世の町場の様相がみてとれる。では、真田屋敷跡そのものには、土塁や矢竹の茂みの他に、何か手がかりがないのだろうか。実は、伝承によると、現在では埋めてしまったが、かつて真田屋敷跡の敷地内には古井戸があったという。さらに昭和22年(1947)に、大量の古銭が発見されている。これらは開元通宝(中国の唐王朝鋳造)を始め、永楽通宝(明王朝鋳造)に到る全51種、1804枚におよぶもので(一部散逸しているという)、現在も個人宅に保管されている。出土銭群は中世の埋蔵銭と推定され、一部錆びて棒状で発見されたというから、緡縄(さしなわ)で括られた銭緡(ぜにさし)の形態だったと考えられる。これが屋敷跡から出土したというのだから、その主人はかなりの財力を誇る有徳人(富裕層)だったといえるだろう。

こうした屋敷跡周辺の事情や、埋蔵銭の発掘などの事実を勘案すると、この真田屋敷跡は、本領回復後、真田幸綱が整備したものと認定してよさそうである。しかも、隣接する山家神社は戦国真田氏が信仰した氏神であり、さらに長谷寺は真田幸綱の菩提寺として知られ、真田幸綱・信綱・昌幸の保護と支援がなされた重要な宗教施設である。戦国期の真田氏との関係が希薄な日向畑とは対照的に、近世松代真田氏にも崇敬されたように、この屋敷周辺の寺社は、真田幸綱とその子孫たちとの関係が濃密といえる。

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平山​優(ひらやまゆう)
歴史学者
1964年生。山梨県埋蔵文化財センター文化財主事、山梨県史編纂室主査、山梨大学非常勤講師、山梨県立博物館副主幹を経て、現在、山梨県立中央高等学校教諭。2016年大河ドラマ「真田丸」の時代考証を担当。

著書
『武田信玄』『長篠合纖と武田勝頼』(吉川弘文館)
『戦国大名領国の基礎構造』(校倉書房)
『天正壬午の乱[増補改訂版]』(戎光祥出版)
『山本勘助』(講談社)
『真田三代』(PHP研究所)ほか多数