萩原さちこの城さんぽ 〜日本100名城・続日本100名城編〜 第12回 津和野城〝山陰の小京都〟を見下ろす天空の山城 

城郭ライターの萩原さちこさんが、日本100名城と続日本100名城から毎回1城を取り上げ、散策を楽しくするワンポイントをお届け! 赤茶色の石州瓦が葺かれた商家、武家屋敷、藩校などの歴史的建造物が点在し、「山陰の小京都」として人気の城下町・津和野。今回は、その城下町を見下ろす霊亀山に築かれた天空の山城・津和野城(日本100名城)をご紹介します。



津和野城、城下、石州瓦、武家屋敷
津和野城から見下ろす城下。石州瓦が葺かれた商家や武家屋敷が盆地を埋める。

城下町を眼下に見る山城

秀峰・青野山と城山に囲まれ、赤茶色の石州瓦が葺かれた商家、武家屋敷、藩校などの歴史的建造物が点在する町・津和野。江戸時代には、津和野藩の城下町として繁栄しました。現在もその面影が残り、「山陰の小京都」として人気の観光地となっています。

津和野城は、その城下町を見下ろす標高367mの霊亀山に築かれています。元寇に際して日本海沿岸再警備のため下向した吉見頼行が、永仁3年(1295)から30年がかりで築城。津和野城南端にある中荒城が、頼行が築いた三本松城(一本松城)の一部だったと思われます。南出丸、二重の堀切、三重の堀切、竪堀などがよく残り、中荒城の南から西斜面に放射状に設けられた畝状竪堀も見事です。

南北朝時代に入ると、吉見氏は周防・長門守護の大内氏と主従関係を結びます。10代隆頼と11代正頼は大内氏から妻を娶り、絆を深めました。津和野に京文化が色濃く残るのは、京文化を好み取り入れた大内氏の影響を受けているから。弥栄神社に伝わる古典芸能神事「鷺舞」も、もともとは京都の八坂神社祇園会に伝えられたもので、京都から山口へ、山口から津和野へと伝えられました。

大内義隆が陶晴賢に討たれると吉見氏は毛利元就を頼り、やがて毛利氏の重臣として活躍します。しかし慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後は、毛利氏の転封に伴い吉見氏も津和野を去りました。

津和野城、三十間台、人質郭、三の丸
最高所の三十間台からのぞむ人質郭と三の丸。

風情ある城下町と圧巻の石垣が見どころ

関ヶ原合戦後に3万石で入った坂崎直盛により、現在の津和野城は大改修されました。壮大な石垣が構築され、兵器や戦術、社会情勢の変化に応じた近世の城へと変貌。城域は拡張され、本城のほかに大手道を挟んだ北側には出丸(綾部丸)が設けられました。別名の綾部丸は、直盛の弟・浮田織部が築城奉行を務めたことに由来します。

城下町づくりに着手すると、検地を行い、城の大手(正面)も変更。西側の大手を東側に移すことで、武家の居住区や集落、市場などを集中させ城下町の繁栄を推進したのです。居館や役所は殿町に置き、家臣団を城山山麓へ住まわせ、町人町や商家町を配置。碁盤の目のように水路や通りが張り巡らされた城下町は、こうして誕生しました。

津和野城の魅力は、城を累々と囲む圧巻の石垣です。いずれも高く、見ごたえがあります。どっしりとした西門跡の風格、苔蒸す本丸(三十間台)西側の風情、地形に沿った曲線美、古めかしい積み方ながら隅角部が整えられた太鼓丸北西側の凛々しい姿など、さまざまな表情が見られます。必見は、壁のように立ちはだかる人質郭南側の高石垣です。

津和野城、人質郭南側、石垣
圧巻の高さを誇る、人質郭南側の石垣。

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執筆・写真/萩原さちこ
城郭ライター、編集者。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演など行う。著書に「わくわく城めぐり」(山と渓谷社)、「お城へ行こう!」(岩波書店)、「日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)、「戦う城の科学」(SBクリエイティブ)、「江戸城の全貌」(さくら舎)、「城の科学〜個性豊かな天守の「超」技術〜」(講談社)、「地形と立地から読み解く戦国の城」(マイナビ出版)、「続日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)など。ほか、新聞や雑誌、WEBサイトでの連載多数。公益財団法人日本城郭協会理事兼学術委員会学術委員。

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