理文先生のお城がっこう 歴史編 第46回 織田信長の居城(安土築城)

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。今回のテーマは、拠点を何度も移した織田信長が最後の居城とした安土城(滋賀県近江八幡市)についてそれまでのお城の常識を変えるものとなった安土城の特徴を詳しく見ていきましょう。

天正(てんしょう)4年(1567)、今まで誰(だれ)も見たこともない物すごい城の工事が琵琶湖(びわこ)のほとりの安土の地(滋賀県近江八幡市)で開始されました。天下統一(とういつ)の拠点(きょてん)とするため織田信長(おだのぶなが)が、当時の最高の技術力(ぎじゅつりょく)や優(すぐ)れた物をえり抜(ぬ)いて集めて城を築(きず)き始めたのです。

安土城は、今までの戦国大名の城とはっきり違いが解(わか)る城でした。戦争のための基地(きち)や活動拠点として利用する施設(しせつ)であった城が、そこに住んで生活する場となり、政治(せいじ)を行うための場へと変化したのです。さらに、統一のシンボルとして見せることを意識(いしき)した城ともなりました。その代表が、最高所に築かれた「天主(てんしゅ)」という名のシンボルタワーです。天主は、それまでの城には存在しなかった巨大(きょだい)な建物で、外観五重、内部は地上六階、地下一階で信長が生活する空間の一部として築かれ、室内はぜいたくで、きらびやかに輝(かがや)く美しい姿(すがた)をしていました。

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安土城復元イラスト(作図:香川元太郎)。琵琶湖に突出する山を利用し、階段状に多くの曲輪を設け、最高所に天主と呼ばれる巨大な建物が建っていました

戦国時代に築かれた城で、専門的(せんもんてき)な知識(ちしき)を持つ技術者集団(しゅうだん)を一ヵ所に集めてまとめあげ、何年にも及(およ)ぶ工事を経(へ)て城を完成させるというようなことはありませんでした。なぜなら、戦争をしているためそんな余裕(よゆう)や、危険(きけん)をおかすことは出来なかったからです。安土城は、何千人もの人々が3年程(ほど)の日々を使って完成させた城でした。まさに、国をあげて城を造(つく)り上げたと言うのが良いような工事内容(ないよう)だったのです。

築城技術者の編成

安土城の完成は、まさに日本の城の歴史(れきし)にとって、最大で最も急な変化でした。それまでの城のほとんどが、土を切ったり盛(も)ったりした山の上に築かれた城で、石垣(いしがき)や水をたたえた堀(ほり)はほとんど使用されていませんでした。まして、天守(てんしゅ)御殿(ごてん)と呼(よ)ばれるような贅沢(ぜいたく)な建物もなければ、当然城の周りに職人(しょくにん)や町人たちを住まわせる本格的(ほんかくてき)城下町(じょうかまち)もなかったのです。

信長は、天皇(てんのう)や将軍(しょうぐん)の住まいがある近畿(きんき)地方の大部分を軍事力によって押(お)さえつけ、近畿地方を活動の場としていた寺や神社を造ることに関わって、昔から受け継(つ)がれてきた技術を持った職人の集団を自分の意のままになるように支配(しはい)したのです。そして、そうした技術を基(もと)に、今までに無い城を造るための新しい技(わざ)や手段(しゅだん)を持った部門を生み出したのです。

安土城天主穴蔵現況
安土城天主穴蔵(あなぐら)現況(げんきょう)。天主は、それまでの城には存在(そんざい)しなかった巨大な建物で、外観五重、内部は地上六階、地下一階で、最高所に築かれたシンボルタワーです。現在は、石垣と礎石(そせき)が残るだけです

安土城を完成させたそれまでに無かった最大の新しい技術は、建物を上に建てることを可能にした、崩(くず)れにくくて高く積(つ)むことが出来るようになった石垣でした。それまでの石垣は、土砂(どしゃ)が流れ出ないようにするのが主な目的で、石垣の上に建物を建てることは仮定(かてい)されていませんでした。ところが安土城には、(わ)が国で初めて石垣の一番上いっぱいに建物が建っていたのです。

安土城、伝三の丸南西隅角石垣
伝三の丸南西隅角(ぐうかく)石垣。自然石を粗割(あらわり)し、石材同士(どうし)を上手く組み合わせることで、稜線(りょうせん)を持った隅角部が完成し、隙間(すきま)には小型(こがた)石材を挟(はさ)んで、凹凸(おうとつ)を無くした積み方が指向されました

新しい石垣と瓦

安土城の石垣の一番の特徴(とくちょう)は、石垣の上に建物を建てるから、そのための工夫を凝(こ)らして石垣を積み上げたことです。それを可能(かのう)にしたのが、近江(おうみ)や周辺の国々にいたいろんな技術を持っていた石工集団の編成(へんせい)を崩して、より良い方向へ組みなおして、今までとは違(ちが)う基準(きじゅん)によって石垣を積ませたからです。

安土城、天主台南面石垣
天主台南面石垣。石材を粗割し、長辺側を横位置に置いて積み上げ、隙間には丁寧(ていねい)に小型の石材を挟み込(こ)んで、ほぼ平らな石垣を積み上げたのです。写真は天主台の石垣になります

屋根の上に載(の)せた瓦(かわら)も、それまでの瓦を造る手段や手法などを用いてはいますが、新しい形や今までにない模様(もよう)を創(つく)り出したのです。それだけではありません、瓦の模様がある先端(せんたん)の軒瓦(のきがわら)に金箔(きんぱく)を貼(は)るという、今まで誰も造ったことがない特別な瓦(金箔瓦(きんぱくがわら))を造って使用したのです。この新しく造られた瓦を使用するために、新しい決まりをつくって、誰でも自由に使うことが出来ないようにしたのです。つまり、信長が使用を認(みと)めない限(かぎ)り、たとえ将軍でも勝手には使えなかったのです。城の部品を使うことに決まりを設(もう)けて許可制(きょかせい)にしたのは、我が国では初めての出来事でした。

安土城
安土城跡から出土した金箔瓦を復元したもの。天主の屋根を飾(かざ)った瓦の先端部には、金箔を張った軒瓦が使用されました。今まで誰も見たことがない、光り輝く瓦が登場したのです(国立歴史民俗博物館蔵)

さらにこの天主は、すごく遠くからもまぶしいほど光り輝く姿を見ることが出来る安土山の一番高い場所に築かれたのです。信長は、天下を統一するためのシンボルとして、誰もが見ればそのすごさが解るようにしたのです。そして、信長かどれだけすごいお金と軍事力を持っているかを見せつけ、信長にさからうことを止めさせるための道具にしたのです。事実、このすごい城の噂を聞きつけた各地の戦国大名は、信長と友好関係を結ぶために、わざわざ安土に使者を送ってくるほどでした。

安土城、天主台の入口
天主台の入口。この石段を上がると、天主の穴蔵(地階)へ入ることが出来ました

今日ならったお城の用語(※は再掲)

※天守(てんしゅ)
近世大名の居城の中心建物で、通常(つうじょう)最大規模(きぼ)の高さを持つ建物のことです。安土城天守のみ「天主」と命名したため「天主」と表記しますが、他は「天守」が用いられます。

石垣(いしがき)
石を積み上げて、土が流れないように土留(つちど)めとした物が最初で、その後、石を組み上げて敵(てき)の侵入(しんにゅう)を防(ふせ)ぐ壁(かべ)の役目を持たせるようになりました。安土築城以降、石垣の上に建物が載るようになり、城郭(じょうかく)建物の基礎(きそ)となったのです。広い意味では、「石積(いしづみ)」・「石塁(せきるい)」も同様に用いられます。

※御殿(ごてん)
城主が政治を行ったり、生活したりする建物です。政務(せいむ)や公式行事の場である「表向き」と、藩主(はんしゅ)の住まいである「奥(おく)向き」とに大きく分けられていました。

※城下町(じょうかまち)
平山城(ひらやまじろ)や平城(ひらじろ)が多く築かれるようになると、城の周囲(しゅうい)に家臣たちの住居(じゅうきょ)である侍屋敷(さむらいやしき)や、商人や職人が住む町人地および社寺が置かれました。お城を中心に設けられた都市のことです。現在の大都市の大部分が城下町から発展した都市になります。

※金箔瓦(きんぱくがわら)
軒丸(のきまる)瓦、軒平(のきひら)瓦、飾り瓦などの文様部に、漆(うるし)を接着剤(せっちゃくざい)として金箔を貼った瓦のことです。織田信長の安土城で最初に使用が始まったと考えられています。


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加藤理文(かとうまさふみ)先生
加藤理文先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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