「鎌倉城は実在したのか?」新視点で「鎌倉城」の謎に迫る 新説「痕跡からたどる鎌倉城の真実」

鎌倉生まれの鎌倉育ちで、鎌倉のお城について20数年研究されている日本画家で城郭研究家の大竹正芳さん。鎌倉市教育委員会等と一緒に進めてきた調査を主軸に大竹さんの新しい視点で鎌倉城を分析していただいた短期連載もついに最終回です。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の終盤とあわせて、お楽しみください!

短期連載『「鎌倉城は実在したのか?」新視点で「鎌倉城」の謎に迫る』(https://shirobito.jp/article/rensai/40)の第1回、第2回はこちらをご覧ください。
・第1回 なぜ頼朝は鎌倉に幕府を開いたのか(https://shirobito.jp/article/1521
・第2回 謎解き!「鎌倉城」の秘密に挑む(https://shirobito.jp/article/1555

はじめに

大河ドラマもいよいよ終盤にさしかかりました。本連載では2度にわたり「鎌倉城」についての考察を述べてきましたが、こちらもいよいよ話の核心に迫りたいと思います。すなわち「「鎌倉城」の具体的な遺構は本当に存在しているのか、そしてあるとするなら、それはいかなるものであったのか」を見ていきます。

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改めておさらいすると治承4年(1180)源頼朝が鎌倉に入府して、北条義時が権勢をふるっていた初期の鎌倉幕府の政庁は大倉幕府でした。北側には山稜が広がり、南には鎌倉から六浦に抜ける六浦道(金沢街道)が通り、さらに外側には天然の濠(堀)になる滑川が流れています。谷ごとに流れる川の支流により、幕府周辺部はエリアごとに分割されており、この頃の鎌倉の城域は、西は鶴岡八幡宮、東は永福寺、北は山稜部、南は滑川及び支流の二階堂川に囲まれた空間だと考えられます。山稜部の尾根先端には西に鶴岡八幡宮本宮(上宮)、中央に法華堂跡、東に荏柄天神、さらには現在、鎌倉宮が建っている東光寺跡および、それに連なる永福寺跡があります。

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法華堂跡

これからの場所を中心に鎌倉城の痕跡をたどり、それを元に「鎌倉城はどんなものだったのか」を考察していきます。

鶴岡八幡宮裏山の遺構

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雪の鶴岡八幡宮 日本画 大竹正芳画

鶴岡八幡宮の裏山は大臣山(だいじんやま)と呼ばれています。明治6年(1873)には日本初の近代陸軍による演習が鎌倉で行われ、山頂部には明治天皇の閲覧のために野立所が設けられました(非公開)。この大臣山山頂部から鶴岡八幡宮本宮を取り囲むように尾根を土塁状に削っています。八幡宮境内で唯一残っている中世建築の丸山稲荷がある場所は、まるでお城の櫓台のようです。

八幡宮の北には鎌倉市立第二中学校がありますが、ここは禅宗寺院の報恩寺が建っていた場所です。敷地は谷間を大小4段に造成しており、周囲の尾根は塁線に見立てられ、切岸で囲まれています。また、境内地の北端には幅4mほどの堀切が設けられています。尾根は北側に延び、鎌倉をとり囲む山稜に続いているのですが、尾根の付け根部分は切り立った崖により尾根道が遮断されています。山の裏側は建長寺の境内です。

建長寺の場所は元々地獄谷と呼ばれていました。建長5年(1253)北条時頼により日本初の禅宗道場として建立されました。建長寺境内の裏山の大半は塔頭(たっちゅう。本寺の境内にある脇寺)である回春院の境内となっています。回春院の大覚池脇の谷筋から西御門の住宅に抜ける道があります。この道は山内から鎌倉に入り込む谷筋の突き当りになるため、普通に考えれば山の急斜面ではなくこの山越え道を使うはずです。おそらく七切通しの巨福呂坂や亀ヶ谷坂が切り開かれる前の古い山内道であったと思われます(江戸時代の絵図には地獄谷埋め残しとあります)。この道は西御門川に沿って大倉幕府に通じています。道の西側の尾根には幅4mほどの堀切が2カ所あり、回春院の道を周囲の尾根から分断させています。

法華堂跡と荏柄天神社裏山の遺構

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法華堂跡(源頼朝の墓・北条義時の墓)縄張図

源頼朝墓のある法華堂跡は和田義盛の乱(1213)で炎上した御所から脱出した源実朝が逃げ込んだ場所であり、宝治合戦(1247。北条氏と三浦氏の戦い)では三浦一族や毛利季光らがここに立てこもった末に滅んでいます。

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法華堂跡真上にある堀切

周囲の尾根は土塁状に削られており、西側では源頼朝墓の下にある白旗神社のところまで削り残し土塁が続いています。法華堂の真上には堀切があり、さらに山の高低差を利用して尾根の表面を35度以上の角度で削り、鞍部(あんぶ。尾根のくぼんだところ)の一番低くなったところに堀切を設けています。堀切の上幅は3m強ほどしかないのですが、高低差と急な角度に削られているため、極めて高い防御の構造になっています。さらに北側に続く尾根にも堀切が2カ所残されています。

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高低差を利用した堀切

とくに奥の堀切は現在テニスコートになっている太平寺の北の境となっています。太平寺は禅宗尼寺の五山筆頭で、国府台合戦で小田原北条氏に滅ぼされた小弓公方(おゆみくぼう)・足利義明の娘である青岳尼(しょうがくに)が住職を務めていましたが、里見氏による鎌倉侵攻の際、寺を捨てて里見義弘に身を寄せたことから、太平寺は北条氏の怒りを買い、廃絶させられました(現在、本尊は東慶寺に、仏殿は円覚寺舎利殿として残されています)。

太平寺跡入口にある八雲神社付近の字名は大門と呼ばれ、鎌倉時代には大門寺阿弥陀堂というお寺があったとされます。太平寺の尾根を挟んだ反対側には大楽寺というお寺がありました。大楽寺の南側で荏柄天神社の裏山と続いています。法華堂跡から続くこの尾根も覚園寺で山稜に続いていますが、八幡宮の裏山の尾根と同様に切岸によって行き止まりになっています。
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法華堂跡裏山の尾根突き当りにある切岸

荏柄天神社の裏山には小田原北条氏の荏柄要害がほぼ原形をとどめています。『関八州古戦録』には天文14年(1545)に起こった日本三大奇襲戦の一つである「河越夜戦」において、後詰めの兵が入れられた城として登場します。尾根の東側の張り出た部分を造成して台形の曲輪を築き、尾根を削り残して土塁にしています。また縄張に目を向けると、堀切を転用したと思われる内桝形と典型的な外桝形の2つの虎口が並んで設けられている珍しい構造をしています。法華堂裏山の堀切と対になるような堀切も残っています(私有地のため立ち入り禁止)。

永福寺跡裏山の遺構

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永福寺跡縄張図

永福寺は宝治合戦が勃発した時に三浦光村が最初に立てこもった場所で、『吾妻鑑』にも「殊勝な城郭」、「鉄壁の城郭」と書かれています。永福寺は源頼朝が義経や奥州藤原氏を供養するため、平泉の寺院を模して建立されたものです。二階堂を中心とした三堂の背後の山には、最大で10mほどの高さの切岸により山裾が削られています。切岸の真下には幅2mmほどの水路が通されています。現在展望台になっている所は造成が甘いですが、2~3段の腰曲輪となっています。尾根道は人為的に地山の岩盤を削り、平らにならされています。

南側に位置する鎌倉宮(旧東光寺)と永福寺の境界に深さ1mほどの浅い堀切があります。しかし堀切の北側は高低差4m以上の切岸になっているので安易に先には行けないようになっています。堀切からは通路状の帯曲輪が伸び、その下方には腰曲輪状の平場があります。三堂裏山の最高所は南北朝時代の経塚(経典を埋めて土を盛ったもの)でした。

永福寺の北側の境界と思しき所には堀切があり、規模は今まで見てきた堀切と同等です。堀切は他にも池の対岸に突き出ている鎌倉前期の経塚が発見された尾根にも確認されています。現在、草が生い茂り分かりづらいのですが、径10mほどの半円形の腰曲輪が堀切の北側にあります。

覚園寺前の切通し

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覚園寺前の切通し縄張図

覚園寺の門前からの天園ハイキングコースの登り口付近にはかつて覚園寺の総門が存在していました。前述の大楽寺があった場所の向かいに尾根道に上がる登り口があります。入り口には石塔も残っていて古くから使われていた道であることが分かります。

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覚園寺前からハイキングコースに登る山道に残る切通し

谷筋に流れる川は覚園寺門前では道の西側の側溝として流れていますが、この登り口の南側では道の東側に流れる側溝に変わります。さらに川はその先で、鎌倉宮の境内の三方を囲む堀川になっています。道を登り始めると岩盤をすり鉢状に大きく掘りこんだ切通しの中をS字に折れ曲がり、掘割道と続きます。道を見下ろす形で尾根が削平され、切岸には15カ所ほど「やぐら」(鎌倉でよく見られる中世横穴式の埋葬施設)が設けられています。

永福寺の背後の山とは堀切を兼ねた切通し道で分断され、その道を見下ろす形で尾根上に曲輪が3段ほど造成されています。それぞれの曲輪には地山を削り残した土塁が残り、道はこれらの平場の下を折れ曲がりながら北上します。この先は西側が土塁状に削り残された尾根道が続き、尾根が曲がるところではW字に折れ曲がる切通しが設けられ、さらにその先で再び西側が土塁状に削り残された道になり、その先で掘割道を通って山頂部の堀切の堀底に出ます。堀底から迂回して天園ハイキングコースに続く尾根道となるわけです。山頂部付近は「百八やぐら」と呼ばれる「やぐら」が数多く造られているエリアになっています。覚園寺前の切通しの形状は大仏坂切通しに極めて似ていて、南房総に残る里見氏の山城とも構造が共通しています。

明らかになった鎌倉城

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鎌倉城縄張図(谷間の造成は主に鎌倉時代後期以降、荏柄要害は戦国時代の城)

ここまで見てきたように源頼朝が開いた大倉幕府周辺には今まで人々に知られていなかった城郭遺構が現在に残されています。中には荏柄要害(えがらようがい)のような戦国時代の山城もありますが、切岸や堀切に関して言えば鎌倉時代と考えても良いかと思われます。堀切の位置が東西の尾根で並んでいたりしているので、鎌倉時代後期から室町時代に報恩寺や大楽寺のような寺院ができる前から、すでに堀切があったと思えてなりません。大倉幕府の背後がなぜこんなに厳重になっていたのでしょうか。

それは鎌倉武士がライバルである平家や奥州藤原氏を攻略した戦法に謎を解くカギがあります。

平家は背後に切り立った崖を背負う一の谷周辺に陣地を構え要害としました。鎌倉軍の大将であった源義経は一の谷の背後の崖が鹿も降りられることを知り、いわゆる「鵯越(ひよどりごえ)」で盲点である背後から攻めました。このことで平家はパニック状態となり、鎌倉軍は一の谷を落とすことに成功します。この後、平家は結局、最後まで大勢を立て直すことができないまま壇ノ浦の合戦(1185)で滅亡しました。

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壇ノ浦古戦場跡。写真ACより

平家滅亡の立役者の義経でしたが、単独行為が目に余るようになり、鎌倉の秩序を保つ上で邪魔な存在になります。ついに頼朝は義経の保護者である奥州藤原氏に圧力をかけ、藤原泰衡は義経を殺害してしまいます。しかし、頼朝は奥州藤原氏を滅ぼすための号令をかけました。

これを迎え撃つため奥州藤原氏は現在の福島県国見町に阿津賀志山防塁を築きました。これは厚樫山(あつかしやま。山と防塁では字が異なります)中腹から阿武隈川の旧河川までの間に全長4kmの二重の巨大な堀と土塁を築き防御ラインとする壮大ものでした。平泉に至る奥州街道を目指して進む鎌倉軍を見下ろせる丘の上に防塁を築いて食い止めるという奥州藤原氏有利の布陣でした。

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阿津賀志山防塁(福島県伊達郡)

しかし、鎌倉軍は夜のうち、畠山重忠に命じて防塁の一部を破壊して騎馬兵が通れる道を造らせます。また一方で、伊達政宗の先祖らは地元の人の案内で一晩かけ山地を大きく迂回して防塁の背後に陣取りました。いざ合戦の時、畠山が造った道から鎌倉軍が攻めよせ、乱戦になっていたところを、背後から遊撃隊がときの声を上げたため、奥州軍は統率力を奪われ、敗退してしまいます。鎌倉軍はそのまま、奥州街道を突き進み、平泉を攻め滅ぼしたのでした。

このように敵の背後を突くことによって敵方に致命的なダメージを与えるという作戦を得意としていたので、鎌倉武士は自分たち自身が同じ目に合わないよう心がけたはずです。

鎌倉城を築いたのは誰か

それでは誰がこの鎌倉城を築いたのでしょうか。鎌倉幕府は三代執権北条泰時の時に幕府の政庁が移転します。これにより幕府の詰めの城も後に鎌倉幕府滅亡の地になる東勝寺に代わります。鎌倉における軍事拠点の所在地が移るので必然的に防御施設の重要性にも変化が出ます。荏柄要害は荏柄天神社再建のために小田原北条氏によって設けられた関所と対になるものでした。里見氏による鎌倉侵攻の際に鶴岡八幡宮を焼かれた反省から築かれたもので、北条氏綱によって復興されたばかりの鶴岡八幡宮を守るという特殊な事情があります。源頼朝が永福寺を築く前に、すでに『玉葉』(平安末期から鎌倉初期の政治や社会情勢が詳細に記されている摂家・藤原(九条)兼実の日記)で「鎌倉城」という言葉があるので、現在みられる永福寺周辺の遺構は「鎌倉城」と呼ばれた後に築かれたものと思われます。

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東勝寺の腹切りやぐら。北条高時はじめ北条一族が切腹したところ。写真ACより

このように「鎌倉城」は最初に源頼朝によって原形が造られ、その後も拡張されたことが分かります。永福寺が創建された時には木曽義仲も平家も奥州藤原氏も滅亡した後で、頼朝にとって脅威となる敵はいなかったはずです。ではなぜこのような防御施設が大倉幕府に必要だったのでしょうか。

二代目将軍源頼家の後を誰が継ぐかで弟の千幡(せんまん。後の実朝)を推す北条氏と頼家の嫡男である一幡を押す比企氏の間で確執がおこり、北条氏により比企氏と頼家の家族が攻め滅ぼされてしまいます。その後、頼家も伊豆修善寺で惨殺されてしまいました。生き残った頼家の息子の公暁は復讐のために健保7年(1219)1月27日、三代将軍源実朝を鶴岡八幡宮にて暗殺しました。

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妙本寺の総門の傍らにある比企能員邸址の碑。写真ACより

朝廷との関係が良好だった実朝が暗殺されたため、後鳥羽上皇とその息子の順徳上皇は事実上鎌倉のリーダーであった北条義時の追討を西国の武士に命じます。最初は戸惑った鎌倉幕府の人々でしたが、北条政子の「頼朝の恩を忘れないでほしい。自分は政治闘争で家族を皆失い、せめて唯一生き残った義時を守ってほしい」と御家人たちに懇願することで鎌倉武士たちの気持ちが一つになりました。さらに大江広元の「こちらから京に打って出よう」という積極案が採用され、朝廷と鎌倉幕府の間で合戦が勃発します。その結果、西国武士が敗れ、後鳥羽上皇が武士たちを見捨てて逃げた為、幕府軍は大勝利を治めました。後鳥羽、順徳両上皇は世を乱した罪人として流刑になり、その後を継いだ土御門上皇が朝廷の代表者としてのけじめから自ら土佐に落ちることにより政変は終了しました。これを承久の乱(1221)と言います。

当時の上皇は「治天の君」と呼ばれ日本国の権威、権力の頂点にいました。それを武力で引きずり下ろし、罪人として処罰したことは日本史上最大のクーデターでした。第二次世界大戦後のGHQですら敗戦国日本の昭和天皇を無罪にしています。それだけ天皇(上皇)を罰するという行為は大きなものなのです。このため武家政権は朝廷の上位に立ち、明治維新まで続きました。

このように史実では鎌倉軍の勝利でしたが、これはあくまで結果にすぎません。場合によっては幕府側に離反、裏切りが出て、鎌倉幕府が瓦解する歴史もあり得たはずです。鎌倉幕府が朝廷軍に対して何も手を打たなかったはずはありません。少なくても自分たちの本拠地の守りは固めたはずです。

私は現在、大倉幕府跡の背後に残る堀切等は後鳥羽上皇らが繰り出す朝廷軍に対抗して北条義時が造らせたと考えています。やはり「鎌倉城」は実在していた。それが今回導き出された答えです。鎌倉の城郭の話はまだまだ続きがありますが紙面の限りもありますので、まずはここで一区切りとし、またご縁がありましたら何処かでお話いたしたいと思っています。

鎌倉殿の13人執筆・写真・イラスト/大竹正芳
日本画家&城郭研究家。東京藝術大学美術学部絵画科日本画専攻卒業。日本城郭史学会委員、一般社団法人日本甲冑武具研究保存会評議員、毎日新聞旅行「戦国廃城を歩く」同行講師を務める。論文多数、玉縄城(神奈川県鎌倉市)や多古城郭保存活用会等の城跡による町おこしの指導、コンサルタントも行う。画家としても有名百貨店にて個展多数、歌川国芳の七代目正統後継者でもある。

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