「鎌倉城は実在したのか?」新視点で「鎌倉城」の謎に迫る 謎解き!「鎌倉城」の秘密に挑む

鎌倉生まれの鎌倉育ち、日本画家で城郭研究家の大竹正芳さんによる短期連載。大竹さんが鎌倉市教育委員会等と一緒に進めてきた調査を主軸に、新しい視点で「鎌倉城」について語っていただく内容で、第2回は、文献に見られる「鎌倉城」やその範囲から、鎌倉城の秘密に迫ります!


 上流貴族の日記『玉葉』に書かれた「鎌倉城」

  平安時代の終わり、源頼朝が北条義時らと共に打倒平家の旗揚げをして鎌倉に入ったころ、京の都には九条兼実(くじょうかねざね)という上流貴族がいました。彼には豊かな知識と教養があり、『玉葉(ぎょくよう)』と名付けられた彼の日記には当時、都で起きた出来事や噂話が事細かくつづられていました。この日記の中で「鎌倉城」という言葉が出てきます。このことから研究者の間では当時の鎌倉の町が天然の要害の地であったと言われるようになりました。

 ただ近年では、武士の本拠地だから城と言われていたのにすぎないという説が有力になっています。もう少しこの「鎌倉城」についてみてみましょう。

鎌倉城
十王岩付近から見た鎌倉市街地。三方が山で全面に海が広がっているのが分かります。中央に海に向かって伸びているのが街の基軸となっている若宮大路

 『玉葉』では「鎌倉城」が3回、「頼朝城」が1回出てきます。最初に「鎌倉城」が登場するのは寿永2年(1183)閏10月25日の項で、伝聞として「頼朝が鎌倉城を出発して、5万の兵で京にいる木曽義仲を討とうと遠江まできたものの、奥州藤原氏の秀平(秀衡)が数万の兵を率いて白河の関を出たと聞いたため、鎌倉が襲撃されると思い、去る5日に城に赴いた」とあります。同じ年の11月2日の項には伝聞として、「先月5日に頼朝は鎌倉城を出て、京に上がるため3日間、宿で過ごしていたところ、頼朝の命の恩人である池禅尼の子の平頼盛(池殿)と話し合いをした結果、兵糧と馬の餌が足りないため、上洛を取りやめて本城に帰り、代りに九郎御曹司を京都に向かわせた」と書いてあります。

 面白いのは兼実が九郎御曹司、すなわち義経の存在をこの時は知らず「この人だれ?誰かに尋ねて聞かないといけない」と言っていることです。つまりこの伝聞が義経のことを「御曹司」と呼んでいる人から得た情報だとわかります。

 続く11月6日の項では、その頼盛が「鎌倉に来着」して頼朝と接見します。そのあと、頼盛は「頼朝城」を去って1日の行程を経て相模の国府に泊まります。時を同じくして頼朝の義弟一条能保(いちじょうよしやす)も義兄弟の一人である阿野全成(あのうぜんじょう)の家に泊まります。全成の家のある場所は「頼朝の居を去ること一町許うんぬん」と記されています。「頼朝城」は「鎌倉城」のことを言っていると考えられます。

 元暦元年(1184)8月21日の項では、やはり伝聞として「頼朝が「鎌倉城」を出て黄瀬川付近にしばらくとどまっている」と書かれています。また、頼朝は父義朝の頭蓋骨が未だに獄中に保管されている事を知り、文覚上人に遺骨を引き取るよう命じています。これを最後に日記の中で「鎌倉城」は出てこなくなります。

源頼朝VS木曾義仲

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長野県木曽町にある木曾義仲と巴御前の顕彰施設「義仲館」前の銅像
 
 このように「鎌倉城」は、すべて九条兼実が誰かから聞かされた話であることが分かります。しかも頼朝の身内の話とセットであり、情報源が鎌倉に通じた人であることもわかります。

 「鎌倉城」が出てくる時期も重要です。平安時代末期、平清盛は全盛期を迎えます。しかし、これをよく思わない人たちも出てきました。そのうちの一人、宮家の以仁王(もちひとおう)は平家に敗れて四散していた源氏に対して平家追討の命令を出します。その中で真っ先に上洛したのが木曾義仲でした。最初は期待されていましたが、京都の治安はますます悪くなり、その上、天皇の跡目問題で、義仲は今でいう皇太子がいるにもかかわらず、強引に以仁王の子を推薦しました。これが、地方豪族の分際で最高権威に意見する無礼者と朝廷に受け取られてしまいました。頼朝はそれまで反逆者の息子というレッテルが貼られていましたが、寿永2年(1183)の10月、東海、東山道の荘園の役人は頼朝の指示に従うようにという宣旨、つまり後白河法皇の命令が下ります。晴れて頼朝は罪人から正規の朝廷の一員になりました。このように朝廷は義仲の対抗馬として頼朝を担ぎ上げます。

 このため後白河法皇と義仲の間には深い溝ができてしまいます。寿永2年(1183)11月19日、義仲は後白河法皇の御所がある法住寺を襲撃し、比叡山の高僧や法皇の側近たちを殺害してしまいます。法住寺を発掘したとき、散乱した鎧兜が多数発掘されました。いかに激しい戦闘があったのか物語っています。鎌倉城が『玉葉』に出てくるのは、まさにこの寿永2年(1183)10月の宣旨直後から法住寺合戦の直前にあたる期間になります。

 元暦元年(1184)1月31日に木曾義仲は義経と蒲冠者範頼(かばのかじゃのりより)という2人の頼朝の弟たちに攻め滅ぼされていますので、前述した8月21日の「鎌倉城」はすでに義仲の死後の話になります。同日、義仲に仕えていた祈祷師の解任要求がなされ、また無念の最期を遂げた義朝の遺骨を引き取るという出来事も書かれているので、木曾義仲追討のエピローグとして最後に「鎌倉城」という言葉が使われたものと想像されます。

「鎌倉城」の意味

 平安時代、鎌倉時代では城や城郭は反乱軍の拠点のような意味で用いられることが多いのですが、すでに書いたように「鎌倉城」と言ったのが親鎌倉派の人物であると考えられますので、悪く言ったとは思えません。ではなんで鎌倉を城と言ったのでしょうか。

 これは執筆者の個人的な想像なのですが、もしかしたら鎌倉を城柵(じょうさく)に見立てたのではないでしょうか。多賀城(宮城県多賀城市)を代表とする古代の城柵は戦国時代の城郭と異なり、軍事拠点でありながら官衙(かんが。役所)としての意味合いが強い施設でした。周囲を高土塀や柵で囲んだ構造で、入り口は櫓門で守られていました。
 
鎌倉城
多賀城。南大路から政庁跡を望む(ぎりょうさん城びと「みんなの投稿」より

 鎌倉の場合、大倉幕府(鎌倉入りした頼朝が屋敷を構えて、侍所など整備した場所)を中心に北条義時の館等が周辺を取り囲んでいました。また西御門(にしみかど)、東御門(ひがしみかど)の地名が今でも残っています。頼朝が朝廷のお墨付きを頂き、木曾義仲を制圧する自負から公の東国支配の軍事拠点として鎌倉城と呼んだのではないでしょうか。『吾妻鏡』に「鎌倉城」が出てこないのは編集された鎌倉中期にはさすがにおこがましいと思ったのかもしれません。

また木曾義仲も頼朝に対抗するため朝廷から征東大将軍(『吾妻鏡』では征夷大将軍)の職を任命されます。お互いに朝廷から認められた東国の支配者として覇権を争ったわけです。

鎌倉城
大倉幕府の石碑

「鎌倉城」周辺の地形とその規模

鎌倉城
 
 大倉幕府があったとされる現在の鎌倉市雪ノ下、西御門地区を中心に、発掘で平安末期から鎌倉時代前期にかけて掘られた幅2~3mほどの薬研堀(やげんぼり)が見つかることがあります。西は若宮大路東側、東は杉本寺付近まで広がり、六浦道に沿って一部二重堀も出ています。これは市内の他の地区では見られない特徴的なものです。

鎌倉城
普段は蓋がされている若宮大路の側溝の堀川
 
 源頼朝の大倉幕府は現在の清泉小学校(鎌倉市雪ノ下)のあたりだとされています。北側は山稜部、南側は滑川に挟まれた地形で、西側に位置する鶴岡八幡宮には段葛という塁状の参道も築かれています。鶴岡八幡宮の境内は幅2m強の堀川と土塁で三方を方形に囲まれています。

鎌倉城
鶴岡八幡宮参道の段葛

鎌倉城
鶴岡八幡宮西側の堀(左)および土塁(右)

 鶴岡八幡宮の東側の尾根の突端には頼朝の持仏堂で、後に墓所となる法華堂があり、その間には西御門の谷が南北に入り込んでいます。現在暗渠(あんきょ)になっていますが、谷の中央には西御門川が流れています。この川は鈍角に折れ曲がって滑川に流れ込んでいます。折れ曲がる部分には執権邸(宝戒寺)があり、この部分で道も南北方向から東西方向に変わるため、道路が整備され埋め戻されるまでは斜めに設けられた筋違橋が川に架かっていました。

鎌倉城
筋違橋の石碑(左)、源頼朝の墓所(右)

 法華堂と東隣の荏柄天神社の間には東御門の谷があり、谷の中央には東御門川が流れています。この川が大倉幕府の東の境だと言われています。東御門川は六浦道付近で滑川と合流しますが、ここには戦国時代、荏柄天神社再興のため北条氏康により関所が設けられました。荏柄(えがら)天神社のさらに東側には鎌倉宮があります。ここは南北朝時代には東光寺というお寺があり、後醍醐天皇の息子の大塔宮護良親王(おおとうのみやもりよししんのう)はここに幽閉されて殺害されています。荏柄天神社と鎌倉宮の間には薬師ヶ谷があり、谷の奥には覚園寺があります。この寺は北条義時が創建した大倉薬師堂がルーツで、その後、後醍醐天皇の勅願所、足利氏の祈願所になりました。この薬師ヶ谷にも川が流れて、北東部からの二階堂川と合流します。二階堂川と滑川との合流地点の東側山稜部には六浦道沿いに鎌倉幕府以前から存在していた杉本寺があります。

鎌倉城
大倉幕府の東側の境とされる東御門川(左)、北条義時法華堂跡(右)。源頼朝の墓の東側に北条義時の墓がつくられた

 このように源頼朝が開いた大倉幕府周辺は北側山稜から延びた痩せ尾根と水堀の役目をする川によりいくつかのブロックに分けられ、それぞれのブロックごとに重要な寺社が建てられていました。『玉葉』に「鎌倉城」と記述された頃は7つの切通も鎌倉を代表するような大寺院もまだなく、おそらく「鎌倉城」は薬研堀が見つかっている範囲に限られていたものと思われます。せいぜいその規模は西は鶴岡八幡宮、東は杉本寺付近までだと考えられます。言葉としての「鎌倉城」と三方を山で囲まれた7つの切通で守る城塞都市は全くの別物として分けて考えないといけません。

 ここまでの話では、「鎌倉城」が具体的な縄張を伴う城郭なのか、便宜上、城と言っただけのものなのか、まだ判断ができません。次回はいよいよ核心である山稜部の秘密に迫りたいと思います。

第1回「なぜ頼朝は鎌倉に幕府を開いたのか」はこちら!(https://shirobito.jp/article/1521

鎌倉殿の13人執筆・写真・イラスト/大竹正芳
日本画家&城郭研究家。東京藝術大学美術学部絵画科日本画専攻卒業。日本城郭史学会委員、一般社団法人日本甲冑武具研究保存会評議員、毎日新聞旅行「戦国廃城を歩く」同行講師を務める。論文多数、玉縄城(神奈川県鎌倉市)や多古城郭保存活用会等の城跡による町おこしの指導、コンサルタントも行う。画家としても有名百貨店にて個展多数、歌川国芳の七代目正統後継者でもある。

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