現存12天守に登閣しよう 【高知城】天守だけでなく本丸御殿も現存

歴史研究家の小和田泰経先生が、現存12天守を一城ずつ解説! 今回は、江戸時代の天守と御殿がどちらも現存している城・高知城です。歴史は古く、南北朝時代に大高坂氏によって築かれた大高坂城が起源だとされていますが…。



岡豊城、仮設、天守
岡豊城に建てられた仮設の天守

長宗我部元親の入城

高知城の歴史は古く、南北朝時代に大高坂氏によって築かれた大高坂城が起源だとされていますが、そのころの城の規模については分かっていません。その後、戦国時代になって、大高坂城は長宗我部元親に攻略されました。そのころ、長宗我部元親が居城としていたのは、大高坂城から東北に約10キロほど離れた岡豊城です。この岡豊は、古来、陸上交通の要衝で、土佐の国府が置かれていたとみられています。元親は、国内の有力な豪族を滅ぼしたり、服属させたりして、土佐を統一すると、その余勢をかって、阿波国(徳島県)・讃岐国(香川県)・伊予国(愛媛県)にまで進出し、ほぼ四国を平定しました。しかし、天正 13 年(1585)、そのころ畿内を征圧した豊臣秀吉から、土佐一国の安堵を条件に服属を求められてしまいます。結局、交渉は決裂し、元親は秀吉に攻め込まれることになりました。とはいえ、秀吉が派遣した軍勢は総勢11万ともいい、とても勝負になりません。降伏した元親には土佐一国のみが安堵されました。

高知城、三の丸、石垣、長宗我部氏時代
高知城三の丸から出土した長宗我部氏時代の石垣

土佐一国の大名となった長宗我部元親は、長宗我部氏歴代の居城であった岡豊城から大高坂城に居城を移します。大高坂城は浦戸湾にも近く、水上交通を利用して、大規模な城下町を建設することも可能でした。三の丸からは、長宗我部元親の時代に築かれたと考えられる石垣が出土しており、かなり本格的な改修工事がされていたことがわかっています。その後、長宗我部氏は、豊臣政権下の大名として残りました。しかし、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、元親の子盛親が西軍・石田三成についたことで所領を失ってしまいます。代わって土佐一国を与えられたのが山内一豊でした。

高知城、本丸御殿、天守
本丸御殿とつながっている天守

土佐に入国した山内一豊は、大高坂城を近世城郭に改修し、この地が河川に挟まれていたことから「河内」と改めました。ちなみに、「河内」はのちに「高智」と書かれ、現在では「高知」と表記されるため、城も高知城とよばれるようになっています。本丸には、山内一豊によって天守が建てられていましたが、残念ながら、享保12年(1727)の大火で天守以下の建物は焼失してしまいます。その後、再建されたのが現在の天守や御殿というわけです。ちなみに、江戸時代の天守と御殿がどちらも現存している城は、高知城のほかにはありません。天守と本丸御殿は1階でつながっており、天守には本丸御殿から入ることになります。

高知城、天守、忍び返し、石落とし
天守1階の忍び返しと石落とし

現在の天守は、江戸時代中期の再建ということになりますが、二重の建物の上に二重の望楼を載せるという形の古い時代の姿をしています。そのようなこともあり、焼失前の天守を参考にしながら、再建されたというのは確かかもしれません。すでに泰平の時代になっていたのですから、形だけの再建にするということもできたでしょう。しかし、高知城には戦闘のための仕掛けも、たくさん設けられています。たとえば、天守の1階には、忍び返しや石落としがあります。忍び返しは、文字通り、石垣を登ってきた敵を撃退するためのもので、現存しているのはこの高知城しかありません。


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小和田泰経(おわだやすつね)
静岡英和学院大学講師
歴史研究家
1972年生。國學院大學大学院 文学研究科博士課程後期退学。専門は日本中世史。

著書『家康と茶屋四郎次郎』(静岡新聞社、2007年)
  『戦国合戦史事典 存亡を懸けた戦国864の戦い』(新紀元社、2010年)
  『兵法 勝ち残るための戦略と戦術』(新紀元社、2011年)
  『別冊太陽 歴史ムック〈徹底的に歩く〉織田信長天下布武の足跡』(小和田哲男共著、平凡社、2012年)ほか多数。

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