現存12天守に登閣しよう 【松本城】国宝天守をもつ唯一の平城

歴史研究家の小和田泰経先生が、現存12天守を一城ずつ解説!今回は、国宝の天守をもつ唯一の平城 松本城(長野県)をご紹介します。





信濃守護小笠原氏の支城

松本城、林城
松本城の西6㎞ほどに位置する林城

信濃国(長野県)の松本城は、戦国時代まで深志城と呼ばれていました。現在でも、深志の名は、長野県松本深志高等学校などに残されています。この深志城は、もともとは信濃守護小笠原氏の支城でした。戦国時代に守護の小笠原長時は林城とよばれる山城を居城としており、領国を守る支城の一つであったのが、深志城だったのです。

しかし、天文19年(1550)、甲斐国(山梨県)の武田信玄が信濃国に侵攻し、林城をはじめ深志城などの支城がすべて落とされてしまいます。こののち、武田信玄は山城の林城を廃城にすると、平城の深志城を筑摩・安曇郡を支配する拠点とし、「武田二十四将」の一人として有名な馬場信房(信春)に守らせました。

しかし、天正10年(1582)には織田信長によって武田氏が滅ぼされ、深志城は織田氏の属城となります。さらに、信長が本能寺の変で横死すると、徳川家康が信濃国を支配下におきました。このとき、家康に従っていた小笠原長時の子貞慶が深志城を与えられ、旧領に復帰することができたのです。貞慶は、この深志城を松本城と改称しました。松本城と呼ばれるようになるのは、これ以降ということになります。

天守を最初に建てたのは石川数正

松本城、太鼓門、五七桐、軒丸瓦
太鼓門に飾られている「五七桐」軒丸瓦

天正18年(1590)の小田原平定で徳川家康が関東に転封となると、家康に属していた貞慶の子秀政は関東に移ります。このとき、豊臣秀吉の命により松本城に入ってきたのが、石川数正です。石川数正は徳川四天王として知られる酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政らが活躍する以前から、徳川家康の側近中の側近として仕えていた重臣でした。主君家康からの信頼も篤かった数正でしたが、家康と豊臣秀吉が戦った小牧・長久手の戦い後、家康のもとを出奔し、豊臣秀吉に臣従したのです。出奔の理由については明らかでありませんが、秀吉との講和交渉に関して、家康の家臣団と確執があったもののようです。

こうして松本城に入った石川数正によって、松本城は大規模に改修され、城下町も整備されました。太鼓門には、豊臣秀吉から石川数正が拝領したと思われる「五七桐」の軒丸瓦が用いられています。このときに天守も建てられたとみられていますが、その天守は現在の天守ではありません。というのも、文禄年間(1592~1596)から慶長年間(1596~1615)にかけて築城技術は急速に発展していきますが、松本城天守には、そのころに到達した高度な技術が投入されているからです。現存する五重六階の大天守は、数正の子康長の時代に改築されたと考えられていて、数正が建てた天守は、部材を転用して三重四階の乾小天守に改築されたようです。

松本城、江戸時代初め、天守
江戸時代初めには完成していた現存する天守

実戦を想定した備え

 天守の壁面は、上部は白漆喰とし、下部は黒漆塗の下見板を貼っているため、白色と黒色の美しいコントラストをみせています。ただし、デザインで白色と黒色にしているわけではありません。火に強い漆喰の壁でも水には弱く、水に強い黒漆塗の下見板でも火には弱いという特性があります。そのため、屋根の下は漆喰の壁、直接雨が降りかかる部分を黒漆塗の下見板にしたと考えられます。また、天守の壁面の壁には、鉄砲を撃つための鉄炮狭間、矢を射るための矢狭間などの穴が開けられているなど、実戦を想定して建てられていました。

松本城、鉄砲狭間、矢狭間
正方形の狭間が鉄砲狭間で、長方形の狭間が矢狭間

その後、天守は、寛永10年(1633)に入った徳川家康の孫松平直政によって辰巳附櫓と月見櫓が増築され、いま見るような姿になっています。月見櫓は、文字通り、月を見るための櫓で、朱塗りの高欄がめぐらされています。風流な月見櫓が増築されたというのも、平和な時代を象徴しているといっていいでしょう。

 ちなみに、天守最上階である6階の梁の上には、江戸時代の初め、月に対する信仰から二十六夜神という神が祀られました。二十六夜神は、松本城の守護神として歴代城主に崇敬されたといいます。そのご加護のおかげか、松本城は、戦乱に巻き込まれることはありませんでした。松平氏のあとは、堀田氏や水野氏といった譜代大名が城主となり、戸田氏の時代に明治維新を迎えています。

松本城、二十六夜神
最上階の梁の上に祀られている二十六夜神

解体をまぬがれた天守

明治維新後、城は不要なものとされ、各地の城で解体が始まりました。松本城の天守も払い下げられ、解体を待つだけになっています。もし、ここで解体されていれば、松本城天守はこの世から消えていたでしょう。しかし、信飛新聞社社長の市川量造が募金を募ったり、城内で開催した博覧会の入場料をあてるなどして、天守を買い戻したのでした。

しかし、それで天守の保存が決まったわけではありません。老朽化によって傾くまでになっていた天守をなんとかしなくてはならなくなったからです。明治36年(1903)、松本中学校(現在の松本深志高等学校)校長であった小林有也らは、寄付を募って11年にわたる大修理を行いました。

こうした市民の取り組みによって、松本城が救われたことを忘れることはできません。昭和27(1952)、松本城天守は、国宝に指定されました。国宝の天守をもつ平城は、日本広しといえどもこの松本城だけです。


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小和田泰経(おわだやすつね)
静岡英和学院大学講師
歴史研究家
1972年生。國學院大學大学院 文学研究科博士課程後期退学。専門は日本中世史。

著書『家康と茶屋四郎次郎』(静岡新聞社、2007年)
  『戦国合戦史事典 存亡を懸けた戦国864の戦い』(新紀元社、2010年)
  『兵法 勝ち残るための戦略と戦術』(新紀元社、2011年)
  『別冊太陽 歴史ムック〈徹底的に歩く〉織田信長天下布武の足跡』(小和田哲男共著、平凡社、2012年)ほか多数。

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