2018/11/13
現存12天守に登閣しよう 【丸亀城】瀬戸内を守る海城
歴史研究家の小和田泰経先生が、現存12天守を一城ずつ解説! 今回は、生駒親正が隠居城として築いた丸亀城(香川県)。一国一城令で廃城とされたけれど、樹木で覆い隠して破却させなかったって本当?
三中老のひとり生駒親正の築城
本丸から望む本州四国連絡橋(瀬戸大橋)
讃岐国(香川県)の西部に位置する丸亀城は、本丸から瀬戸内海が一望でき、ここを航行する船舶を見張る役割があったことがわかります。現在では海岸線は遠くに見えますが、当時は外堀が海に通じる典型的な海城でした。ここに初めて城が築かれたのは、室町時代のこととされています。讃岐守護を兼ねていた管領細川氏の重臣奈良元安が築いたとの伝承があるのですが、事実であったかはわかりません。仮に事実であったとしても、城というよりは砦のようなものだった可能性が高いでしょう。
讃岐国は、管領細川氏の本国でしたが、戦国時代になると、細川氏の家臣であった阿波国(徳島県)の三好氏に支配されます。その後、天正10年(1582)、土佐国(高知県)の長宗我部元親が讃岐に侵入すると、奈良元安の孫にあたる奈良元政は阿波国に逃れ、三好一族の十河存保に従いますが、中富川の戦いで討ち死にしてしまいました。こののち、丸亀城は、長宗我部元親の属城として組み込まれたようです。しかし、その長宗我部元親も、天正13年(1585)には豊臣秀吉による四国攻めで降伏し、こののち、秀吉の側近で三中老のひとりとしても知られる生駒親正が6万石で讃岐国に入ります。
生駒親正は、高松城を本拠としていましたが、慶長2年(1597)、子の一正に家督を譲ると、自らの隠居城として丸亀城を築きます。こうして丸亀城は、6年の歳月を費やし、慶長7年(1602)に完成しました。生駒氏時代の天守は、現在の場所とは異なり、本丸の一段高いところに建てられていたとみられています。生駒親正が心血を注いで築き上げた丸亀城ですが、完成からわずか13年後の元和元年(1615)には、廃城となりました。この年、江戸幕府が、一国一城令を出して、大名の領国には1城しか認めないという方針を示したからです。そのころ、高松藩主となっていた生駒一正の子正俊は、高松城を残す一方、丸亀城を廃城とすることにしました。このとき、丸亀城を樹木で覆い隠し、破却させなかったとの伝説が残されていますが、事実とは考えられません。現在の石垣の下からは破壊された石垣が出土しており、これは、一国一城令によって廃城とされた痕跡と考えられるからです。
現在の丸亀城を築いた山崎家治
高石垣の上に建てられた高さ15メートルほどの天守
寛永17年(1640)に生駒氏は、4代高俊のときに生駒騒動とよばれる御家騒動を引き起こし、出羽国(秋田県)の矢島に転封となりました。こうして54年間におよぶ生駒氏の治世は終わりを告げ、これを機に、讃岐は東西に二分されたのです。東讃岐には水戸藩主徳川頼房の子松平頼重が12万石で入って高松城を居城とする一方、西讃岐には肥後国(熊本県)の富岡藩主だった山崎家治が5万3000石で入ってきました。
西讃岐に入った山崎家治は、廃城となっていた丸亀城を再興することにします。当時は、武家諸法度で、城の修理築造は禁止されていましたが、丸亀藩は新設であることから許可され、しかも、幕府から造営料が下賜されました。40mにおよぶ高石垣も、このときに築かれたものとみられます。ただし、石垣は、一挙に40mの高さで積まれているわけではありません。おおむね3段、一部は4段に分けて積まれており、遠くからみると、40mの高石垣で築かれているようにみえるのです。山崎家治によって丸亀城は再興され、現在の三重三階天守は、このとき「御三階櫓」として建てられたものとみられています。しかし、山崎氏は万治元年(1658)、家治の孫が8歳で病没したため、大名家としては断絶してしまいました。
京極氏の時代に完成
天守の瓦に施された京極氏の家紋「平四つ目結」
その後、丸亀城には、播磨国(兵庫県)から京極高和が入ってきました。昭和25年(1950)の解体修理で「万治3年」の年紀が書かれた木札が発見されたことで、丸亀城の天守はこのとき完成したともみられています。しかし、山崎氏3代の時代に天守が存在しないままだったとも考えにくく、京極高和によって修築されたものとみるほうが適切ではないでしょうか。京極高和は、山崎氏の築城を引き継ぐという名目で改修を幕府から認められ、丸亀城は、2代高豊の代に完成しました。
鉄砲狭間から大手門を見下ろす
平和な時代に築かれた丸亀城は、結果的に戦闘の舞台になることはありませんでした。しかし、防御をおろそかにしていたわけではありません。天守北面の一階には、石落が設けられており、鉄砲を撃つための狭間も6カ所ありました。また、壁は二重に重ねて防弾力を高めた太鼓壁となっています。現在、天守は独立していますが、当時は、西側に位置する二重の姫櫓と多聞櫓で連結していました。つまり、防御のため、天守に直接入ることはできなかったわけです。
鉄砲玉を防ぐため長押までを二重にした太鼓壁
明治維新後、多くの城では建物が取り壊されました。丸亀城でも明治2年(1689)に御殿が焼失したあと、明治4年(1871)の廃藩置県後には、建物もほとんどは撤去されてしまいました。残された天守と大手門は、昭和25年(1950)に制定された文化財保護法により重要文化財に指定され、ありし日の姿を今に伝えています。
小和田泰経(おわだやすつね)
静岡英和学院大学講師
歴史研究家
1972年生。國學院大學大学院 文学研究科博士課程後期退学。専門は日本中世史。
著書『家康と茶屋四郎次郎』(静岡新聞社、2007年)
『戦国合戦史事典 存亡を懸けた戦国864の戦い』(新紀元社、2010年)
『兵法 勝ち残るための戦略と戦術』(新紀元社、2011年)
『別冊太陽 歴史ムック〈徹底的に歩く〉織田信長天下布武の足跡』(小和田哲男共著、平凡社、2012年)ほか多数。