山田城の続き(2/2)です。石積の前に着きました。
1390年護佐丸は山田城按司の三男としてここで生まれます(写真①②③④)。そして幼少の頃を、ここで過ごしました。ちょうど京都では足利義満が権勢を振るっている頃でした。
後に護佐丸は、ここ恩納村から西へ8km程の読谷村の座喜味の丘に城を移しますが、その時にこの山田城の石を座喜味へ運んだそうです。そのせいか遺構はわずかで、あまり残っていませんでした。本丸の西側崖地には、先祖代々の墓が埋め込まれる形でありました(写真⑤⑥⑦)。
曾祖父は今帰仁城の按司でしたが、「怕尼芝」(はねじ)に滅ぼされ、怕尼芝は北山王を名乗るようになります。曾祖父の子(=護佐丸の祖父)は中山王尚氏の家臣となり、恩納村の地が与えられ、標高90mの山田に平山城を築きました(写真⑧山田城全景)。よって護佐丸はこの山田城の三代目という事になります。
ここで1416年、護佐丸26才になった時、ついに彼に大きな転機が訪れます。当時の主君、中山王の「尚巴志」(しょうはし)は、敵対する当時の北山王「攀安知」(はんあんち)を滅ぼすため討伐の兵を上げたのです。これは琉球を統一するための戦いでした。そこで護佐丸は、「これは念願の曾祖父の仇を討つ絶好のチャンスだ!」と討伐軍に加わります。
山田城の石積の場所からは、恩納の海岸越しに北山(名護・本部半島)が見えました(写真⑨と前回写真②)。護佐丸はどんな思いで尚巴志とともに、ここから今帰仁城を目指して北上したのでしょうか?
次は、その今帰仁城を訪れます。
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