毛利家家臣・熊谷氏の居城。
三入高松城の数ある登山道の内、今回東側の可部ゴルフパーク奥の桐原登城口より登城。
それぞれの登山道からも遺構が確認できるため全て見ようと思えば何度かアップダウンを繰り返すようになります。
今回は夏の暑さと体力温存の為、主郭まで行き、帰りも同じルートで帰るのみ…
熊谷氏の娘・新庄局と吉川元春の婚姻により熊谷氏と毛利氏は強固な信頼関係を築く。
そのお二人のご子孫のコンサートの為、体力温存
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2023/08/11 16:38
2023/03/12 18:06
圧巻の山城 (2023/02/12 訪問)
【三入高松城】
<駐車場他>高松山登山口前<34.525970, 132.526396>または少し南にスペースあり。
<交通手段>車
<見所>石垣・堀切・竪堀・畝状竪堀・曲輪
<感想>1泊2日安芸高田の山城攻めの旅、ラスト9城目。三入高松城は鎌倉時代に承久の乱で戦功のあった熊谷氏が安芸国三入荘を与えられ移封します。当初は伊勢ヶ坪城を築城しそこに入城しますが、やがて戦乱の世になり、一説には応永年間(1394~1428年)に当主の熊谷直経が高松山に築城したのが始まりとされます。戦国時代当初は熊谷氏は安芸武田氏に臣従していましたが、離反し毛利氏に仕えます。高松城は安芸武田氏からの攻撃をうけますが落城せずその堅牢さを見せつけます。関ヶ原後に毛利氏が防長に移封するまで熊谷氏の居城でその後廃城となったようです。
城跡は主郭を中心に南西方向に二の丸・三の丸の連郭、南方向に与助丸の連郭、北方向に鐘の段の連郭、少し離れた北東側に独立した防御遺構の多い曲輪群があります。登山口はいくつかあるようですが私は東側の登山口から登りました。ここから入ると北東側の曲輪群に入ります。堀切・竪堀が多数あり、堀切側面には土留めの石垣が残っている堀切もあります。尾根曲輪の法面に石垣が残っています。畝状竪堀群があり、最奥の竪堀には起点に石垣が残っているものがあります。ここの曲輪群は凄い見応えです。主郭横の鐘の丸から北に伸びる鐘の段の連郭にも石垣が多く残っています。主要部は広い主郭で西側の鐘の丸と広い箱堀で仕切っています。主郭から南西方向に二の丸⇒堀切⇒三の丸⇒堀切と続きます。三の丸に神社があります。主郭・鐘の丸から南の横に長い下段曲輪に石組井戸が残り南方向に与助丸の連郭があります。与助丸の曲輪群は巨石曲輪で巨石の間々に石垣が組んで残っているものも見られます。最南に大堀切があります。
凄い見応えで3時間以上、日暮れぎりぎりまで回れるまで見ましたが全て見れなかった。この旅最後にマイベストに入る凄い城跡に出会えてよかった。絶対お勧め、百・続百名城に負けてない城跡です。走行距離791㎞無事走破。
<満足度>◆◆◆
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2022/05/01 16:36
熊谷信直 (2022/04/30 訪問)
熊谷氏の城址です。思ったより広い城域があり、遺構もよく残されています。「城郭放浪記」さんの縄張りを参考に散策しました。各曲輪が明瞭にわかり、多くの堀切や所々に石垣を見ることができます。本丸からは広島市街を遠望することができます。
北東部にある畝状竪堀が見たくて主郭付近から下りて行ったのですが、思ったより距離がありました。畝状竪堀とその先にある複数の堀切を確認しましたが、東側の登城口近くまで行ったと思います。かなりの坂を上り下りすることになりました。
登城路はいくつかありますが、自分は南西麓の川沿いの登城口から入りました。少し登ると鹿の群れに遭遇しましたが、写真を撮る前に立ち去ってしまいました。与助丸経由で馬場に到達しました。道は難路です。順路が分かりにくいところもありますが、ピンクリボンや木に巻かれた赤いテープを目印にすれば迷うことなく登って行くことができます。
昨年、登城する予定でしたが、新型コロナウィルス感染症の影響で今年となってしまいました。期待以上の城址で行けてよかったです。
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分類・構造 | 山城 |
---|---|
築城主 | 熊谷直経 |
築城年 | 応永年間(1394〜1428)?[三入高松城]、13世紀後半[伊勢ヶ坪城]、永禄・元亀年間(1558〜1572)[土居屋敷] |
主な城主 | 熊谷氏 |
廃城年 | 慶長5年(1600) |
遺構 | 曲輪、井戸跡、土塁 |
指定文化財 | 県史跡(熊谷氏の遺跡) |
再建造物 | 石碑、説明板 |
住所 | 広島県広島市安佐北区可部町 |
問い合わせ先 | 広島市市民局文化スポーツ部文化財課 |
問い合わせ先電話番号 | 082-504-2501 |