はまましけじんや

ハママシケ陣屋

北海道石狩市

別名 : 庄内藩ハママシケ陣屋、荘内藩ハママシケ陣屋、浜益毛陣屋
旧国名 : 蝦夷

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零汰

自然地形を利用した陣屋 (2024/05/20 訪問)

今回訪問した遺構のある道内陣屋跡の中で唯一自然地形をそのまま利用した場所です。陣屋跡や築造年代を知らずに訪問したなら一般的な城跡と認識しそうです。

大手まで登るとそこからは緩やかに敷地が下って行きます。東南以外の三方は土塁や自然地形の小山に囲まれていました。西側土塁脇を抜けて奉行長屋を目指して歩いていくと小さな川(巾40cm程)が目に入ります。案内板に記載のある石橋が付いており当時の物のようです。そして小さな井戸や湧水?もそのまま残っています。道内の他の陣屋跡は平地で当時は全体が見渡せたでしょうがこちらは高低差があり全てを見渡す事が出来ません。そんな所を考えると道内陣屋廻りには欠かせない陣屋の一つかと思います。残念ながら空堀は見逃してしまいました。

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ペドロ

荘内藩が統治した陣屋跡、訪れる人が少ない超レアな場所です。 (2021/08/03 訪問)

 江戸時代後期 になると、 文化 4年国防上の理由から石狩郡域は 天領 とされました。 文政 4年には一旦松前藩領に復したものの、 安政 2年再び天領となり 幕府 ( 箱館奉行 )によって石狩役所が置かれ、幕命をうけた 庄内藩 が警固をおこないました。
庄内藩には現在の石狩市など西蝦夷が割り当てられ、60(万延元)年にハママシケ陣屋を築きました。陣屋内には、日本海近くの丘陵を削って平らな場所を造り、奉行長屋や神社、土蔵、湯屋、兵糧や兵具の蔵、火薬庫などが設けられました。敷地面積は山林を含め16万7000平方メートルにも及んだそうです。建物の造成跡が残り、海路を経て庄内からの建設資材を陣屋に運ぶために開削した「千両堀」と呼ばれた堀も残ります。領内では防衛任務だけでなく開拓も目指し、8カ村の開墾を行い水稲や畑作の耕作、漁場開拓も進め、現在の浜益の礎となったそうです。
 現在は、浜益のメイン通りに陣屋への標識は存在せず、知らない人は通り過ぎてしまいます。冬は半年間雪に埋もれ、単独で敷地内を見学することは余りお勧めしません。ヒグマの生息地域でもあり、私も怖くて陣屋跡の敷地内を単独で歩くことを断念しました。
石狩役所(石狩市)からハママシケ陣屋跡は、車で1時間ほどかかります。その区間、殆ど信号機はありません。
そば処 冨士味屋さんは、蕎麦屋ですがかつ丼が美味しいです。食後に名物どら焼きもお勧めします。

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todo94

庄内藩の陣屋 (2016/08/01 訪問)

山も利用した結構広大な陣屋。庄内藩は領地拡大も視野に入れていたらしい。

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城郭情報

分類・構造 陣屋
天守構造 なし
築城主 酒井忠発
築城年 安政6年(1859)
主な城主 庄内藩
遺構 土塁、横堀(空堀)、建物跡
指定文化財 国史跡(庄内藩ハママシケ陣屋跡)
再建造物 大手門、碑、説明板
住所 北海道石狩市浜益区川下
問い合わせ先 石狩市教育委員会浜益生涯学習課
問い合わせ先電話番号 0133-79-2114