江戸時代後期 になると、 文化 4年国防上の理由から石狩郡域は 天領 とされました。 文政 4年には一旦松前藩領に復したものの、 安政 2年再び天領となり 幕府 ( 箱館奉行 )によって石狩役所が置かれ、幕命をうけた 庄内藩 が警固をおこないました。
庄内藩には現在の石狩市など西蝦夷が割り当てられ、60(万延元)年にハママシケ陣屋を築きました。陣屋内には、日本海近くの丘陵を削って平らな場所を造り、奉行長屋や神社、土蔵、湯屋、兵糧や兵具の蔵、火薬庫などが設けられました。敷地面積は山林を含め16万7000平方メートルにも及んだそうです。建物の造成跡が残り、海路を経て庄内からの建設資材を陣屋に運ぶために開削した「千両堀」と呼ばれた堀も残ります。領内では防衛任務だけでなく開拓も目指し、8カ村の開墾を行い水稲や畑作の耕作、漁場開拓も進め、現在の浜益の礎となったそうです。
現在は、浜益のメイン通りに陣屋への標識は存在せず、知らない人は通り過ぎてしまいます。冬は半年間雪に埋もれ、単独で敷地内を見学することは余りお勧めしません。ヒグマの生息地域でもあり、私も怖くて陣屋跡の敷地内を単独で歩くことを断念しました。
石狩役所(石狩市)からハママシケ陣屋跡は、車で1時間ほどかかります。その区間、殆ど信号機はありません。
そば処 冨士味屋さんは、蕎麦屋ですがかつ丼が美味しいです。食後に名物どら焼きもお勧めします。
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