萩原諏訪城からの転戦です。桜谷公園入口(35.881730、137.211201)から進入し、先にある駐車場に駐車しました。
築城年代は定かではないようですが、永正年間(1504年〜1521年)に三木直頼によって築かれたと云われています。一説には直頼の祖父久頼によって築かれたとも云われています。
三木氏は1411年(応永18年)姉小路尹綱の乱を鎮圧した功によって、京極高員(高数)が足利幕府より飛騨国竹原郷を得ると、三木正頼が京極氏の代官として竹原郷に入部したことにはじまります。
二代三木久頼の代に主家の没落に乗じて竹原郷を横領し、四代三木直頼は三木氏中興の祖といわれ、北飛騨の江馬氏や姉小路氏などと接触して三木氏の勢力を拡張します。
六代三木自綱の代に全盛を極め、1579年(天正7年)に松倉城を築城して居城を移すまでの間、三木家の居城でしたが、それ以後は松倉城の支城となって自綱の子信綱が城主となります。
なお、三木自綱は夏を松倉城、冬を桜洞城に居城とするようになり、それぞれ夏城、冬城と呼ばれたそうです。
1582年(天正10年)江馬輝盛が南飛騨へ侵攻すると、吉城郡荒城川で迎え撃ち大将江馬輝盛を討ち取って江馬氏の本城高原諏訪城を落とし、飛騨の大半を支配下に置きましたが、 信長死後、越中の佐々成政に与して羽柴秀吉と対立することとなります。
1585年(天正13年)羽柴秀吉の命によって飛騨に侵攻した越前国大野城主金森長近を自綱は高堂城、広瀬城で迎え撃ったが敗れ降伏しました。
自綱の次男秀綱の籠る松倉城も落城して三木氏は没落し、萩原諏訪城が築かれると桜洞城は廃城になりました。
桜谷公園にある地図(一番はじめの橋の近く)を確認すると桜洞城への道が書いてあり、そこの橋を渡って右側奥に階段があり、それを登って西へ進むと城址です。
現在高台の上は畑として開墾され、荒廃しています。
高台の西側に桜洞城の標柱が建ち、土塁・空堀・石積の遺構がわずかに確認できる程度です。
攻城時間は25分くらいでした。
次の攻城先=牛臥山城(城びと未登録 岐阜県高山市)、山下城居館(城びと未登録 岐阜県高山市)、飯山城(城びと未登録 岐阜県高山市)を経由して高山陣屋に向かう予定でしたが、予定時間の遅れにより、直接、高山陣屋に向かいます。
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