2018/08/30
ナワバリスト西股さんと行く! ビギナー女子の山城歩き STEP5【深大寺城の弐】築城の理由は地形と歴史から読みとける
一見、ただの山と木しか見えないけど、山城って何が面白いの? どこに注目すればいいの? そんな迷えるお城初心者のために、実際に山城を歩きながら山城を学ぼう!という「ビギナー女子の山城歩き」コーナー第五弾。〝ナワバリスト〟西股総生先生を水先案内人に、今回は深大寺城(東京都調布市)へ。山城がなぜそこに築城されたのか?その理由に迫ります。
第一郭で森林浴を楽しむ3人。
断崖絶壁&高土塁&腰曲輪に囲まれた第一郭
——第二郭の散策を終えた一行は、土橋を渡り第一郭へ。木々や草花が生い茂っており、ベンチに座って森林浴を楽しめる。
広大な第二郭に比べ、第一郭はコンパクトに感じられる。木々が生えていることや土塁でしっかりと囲われているからであろう。
(中村蒐:以下中村)
「ここが深大寺城の本丸ですね!さっきとは違って何となく圧迫感がありますね」
(西股総生:以下西股)
「この第一郭は土塁でしっかりと囲われており、土塁の向こう側は断崖絶壁となっています」
(二川智南美:以下二川)
「なるほど。入り口は土塁・薬研堀・土橋・櫓台、周囲は土塁・絶壁、完璧な守りですね!」
(西股)
「第一郭の北東側には、公園に整備された際に作った道があります。そこから腰曲輪に出られるので行きましょう」
縄張図では斜面をケバで表現し、線が長ければ長いほど高所であることを表す。深大寺城の縄張図を見ると、第一郭はそのような長いケバにぐるりと囲まれている。[作図・提供=西股総生(以下、縄張り図はすべて同)]
(中村)
「うわー、ここから麓の水生植物園が見下ろせますね!」
(西股)
「この腰曲輪から、土塁を囲む断崖の様子がわかるでしょう?」
(中村)
「そうですね。こんな急勾配の崖、普通は登れないですね!」
細長い腰曲輪。右側が第一郭、左側が水生植物園。草木が茂っていてわかりづらいが、両側の勾配ともに険しく、登るのは困難だ
(二川)
「ところで先生、腰曲輪って一体どんな役割があるんですか? 兵を駐屯させておくには狭いし、この急勾配を見ていると、腰曲輪なんて作らずに、第一郭まで急斜面のままにしておいた方が、より堅い守りだと思うんですが……」
(西股)
「二川さん、最初からここが急斜面だったと思ったら、大間違いですよ」
(二川)
「え!? どういうことですか?」
(西股)
「まず山の斜面は必ず急という訳ではありません。なだらかな斜面であれば、それを削って腰曲輪を作るのです」
(二川)
「なるほど、途中まで急でも、頂上の方はゆるやかだったんですね」
(西股)
「腰曲輪を作ることによって、頂上付近も急斜面にできるのです。ある意味『急斜面を作った結果、腰曲輪ができてしまった』という言い方もできますね」
(中村)
「そうか。腰曲輪を作る動機は『狭くても良いから曲輪が欲しい!』じゃなくて、『切岸が欲しい!』だったんですね」
(西股)
「本丸付近に小さな腰曲輪がたくさん連なってる山城が結構ありますが、これは腰曲輪そのものではなく、切岸が欲しくて作ったケースが多いですね」
(二川)
「麓から腰曲輪までに一つ、腰曲輪から頂上の第一郭までに一つ。麓の湿地を頑張って乗り越えてきても、急斜面が2回も待ち受けてる訳だ。さすがに厳しくてここから攻めようなんて人、絶対いないでしょうね〜」
(西股)
「並の兵士なら大軍で来たとしても迎撃できるでしょう。でも、忍者のような精鋭部隊だったら湿地も急斜面も物ともしないでしょうね」
(中村)
「そっか、忍者だったらコソコソ忍び込んできそう……」
(西股)
「そこで腰曲輪に柵と見張りの兵を置いておくのです。そうすれば麓から腰曲輪までの斜面を乗り越えてきたところで、攻め手を捕らえることができます。さらに腰曲輪を突破しても、第一郭でもう一度迎撃することができます」
(二川)
「なるほど、ただの狭い曲輪だと思ったら、ものすごい役割を担っていたんですね」
腰曲輪を作る理由は大きく分けて2つ。1つは急斜面の切岸が欲しかったため、もう1つはダイレクトに山頂の曲輪に到達させないためだ
地形を制するものは城を制す!
——腰曲輪の機能を学んだ後、3人は来た道を戻り、麓の水生植物園へと向かった。この水生植物園にも深大寺城築城のヒミツが隠されていたのだ。
水生植物園を眺める。右手のこんもりした丘が深大寺城だ
(中村)
「麓は湿地、斜面は断崖。改めて麓から深大寺城を見ると、難攻不落って感じがしますね!」
(西股)
「この深大寺城は武蔵野台地の縁の舌状台地(ぜつじょうだいち)に築かれています。城の東側から北側にかけては谷になっており、台地の湧き水がちょうど城の北東部に溜まっているのです」
(二川)
「なるほど!この水生植物園は台地から湧き出してきた水によってできているんですね!」
西股先生のワンポイント講座
<天然の防衛拠点・舌状台地>
舌状台地とは文字通り、舌を突き出したように細長く突き出た台地のこと。三方(深大寺城の場合は南・東・北)が天然の崖になっており、攻め手は“舌”の付け根側である台地続き(深大寺城の場合は西)から攻めるしかない。横や後ろから攻められる心配が少ないため、守り手は台地続きの方角に防御を集中できる。なぜ城がこの場所に築かれたのか、地形に注目するとその理由が見えてくるだろう。
(西股)
「麓の湿地は攻め手の足止めになるのはもちろん、湧き水に恵まれていたということは、水源確保が簡単だったということ。城において水が確保できるのは重要なポイントです」
(中村)
「もしかして、深大寺がお蕎麦で有名なのは、綺麗な湧き水がたくさんあったからだったりして」
(西股)
「その通り。そしてもう一つ、深大寺城のインフラを支えた存在が深大寺です。中村さん、深大寺は由緒あるお寺でしょう?」
(中村)
「はい!ご本尊の『釈迦如来倚像』は白鳳文化の特徴を色濃く残していますし、お寺の伝説では天平時代開創(約1300年前)と伝わっています!」
(二川)
「おー、さすが仏像マニア(笑)」
(西股)
「昔からたくさんの人が参拝していたお寺ということは、人々が行き交う道や門前街などが整備されていたはず。つまり、軍隊が駐留するためのインフラを整備する必要がなかったんですよ」
(二川)
「なるほど、地形やその土地の歴史から築城の理由が予想できるんですね」
(中村)
「え、じゃあ今日深大寺やお蕎麦屋さんに寄り道するって話しは……」
(西股)
「深大寺城の築城理由について、二人にヒントを出したつもりだったんだけど難しかったかな?」
(中村)
「えー、そんなのわかんないですよー!」
オレンジ色の線が台地の端を示す。台地が舌のような形で突き出しているのがわかる
関東を代表する古刹・深大寺。本尊の「釈迦如来倚像」は東日本最古の国宝仏像だ。平成30年7月17日〜9月末日までは、深大寺開創1300年を記念した限定御朱印の授与も行われる。
今は亡き第三郭と深大寺城の歴史
——立地の秘密を解き明かした一行は、ほとんど面影のない第三郭の痕跡を探すことに。一旦、水生植物園を出て、第三郭の西側だった場所を通る道を進む。
(二川)
「舌先が第一郭、真ん中が第二郭、となるとやっぱり舌の根にも何かあったんじゃないですか?」
(西股)
「そうです。今はテニスコートや住宅地になっていますが、元は第二郭よりも広い第三郭がありました」
第三郭の西側、ほぼかつての堀沿いに走る道。今は住宅や果樹園に挟まれた、狭い小道だ。深大寺行きバス停の向かいにある「いづみや」の脇を入る
(西股)
「今歩いてるところは、発掘調査の結果空堀があったことがわかっています」
(中村)
「今はコンクリートで舗装されてて、全然わかんないですね」
(西股)
「果樹園のある場所と、このコンクリートの道、ほんの少しだけど高低差があるんですが、わかりますか?」
(中村)
「うーん、言われてみればそんな感じがするような……」
(西股)
「このかつての堀跡、南西側は直角に折れていました。そしてその延長線上に舌状台地の斜面を切るように、竪堀が通ってました」
(二川)
「え、この家と家の間の隙間、竪堀だったんですか?」
住宅の間にある竪堀。言われなければ竪堀跡とは気づかないだろう
第三郭の全貌。縄張図は決して東に偏っていたわけではなく、第三郭を示すために描かれていたのである
(二川)
「あ、第三郭の南側から第二郭の裏手に出てくるんですね」
(中村)
「さっきフェンス越しに見た景色は、ここだったんですね」
(西股)
「今僕たちが立っているのは、第二・第三郭を隔てる空堀から麓へ繫がる堀底道の途中です」
(中村)
「うわー、ここから見ると、第二郭の土塁の高さが際立ちますね!」
(西股)
「今は落ち葉が溜まってるから、昔はもっと低い位置だったはずですよ。そうですね、かがんで見るくらいが当時の人々を体感できるかもしれませんね」
(中村)
「どれどれ……うわー、何これ!上からこっちの動向丸見えじゃないですか!槍でも構えられたらマジで怖い!」
フェンス越しに第二郭の土塁を見上げてみると、想像より高く「あそこから狙われたらひとたまりもない」と思わせる
(西股)
「さらに第二郭の土塁の切れ目まで、南東側へ進みましょう。ここから南側を見ると住宅街しかありませんが、縄張図には第二郭の下に腰曲輪があるの、わかりますか?」
(二川)
「あ、言われてみれば確かに!土塁もあったけど、ここに腰曲輪を作って城の南側を見張ってた訳ですね!」
(西股)
「深大寺城は扇谷上杉氏(おうぎがやつうえすぎし)によって築かれました。そして深大寺城の東側、多摩川を隔てて向こう側には、ライバルの北条氏が城を構えていました」
(中村)
「え、お互いに監視状態ってことですか? 一触即発じゃないですか!」
木々越しに南方面を覗くと、遠くに多摩丘陵が見える。多摩丘陵は北条氏の城があった場所だ。多摩丘陵と武蔵野台地上の間には多摩川が走り、川を挟んで互いの動向を見張っていた
(西股)
「当時、北条氏は扇谷上杉氏の本拠地である河越城を狙っていました。そこで、扇谷上杉氏は、河越城の南方、多摩川の向こうの北条氏を睨む位置に深大寺城を築きました」
(二川)
「インフラだけではなく、北条氏を狙うのにもベストポジションだった訳ですね」
(西股)
「さらに、深大寺城の東には北条氏の最前線であった江戸城がありました。もし北条氏が江戸城から河越城へ出陣したとしても、武蔵野台地の上に築かれた深大寺城から、北条氏の横あいを衝くことができたでしょう」
(中村)
「それで結局、扇谷上杉氏と北条氏の戦いは、どちらが勝利したんですか?」
(西股)
「ある日、北条氏は賭けに出たのです。江戸城からものすごいスピードで河越城へ進軍しました。深大寺城には目もくれず、です」
(二川)
「深大寺城をスルーしちゃったんですか? それって、北条氏は敵に側面をさらしたまま進軍したってことですよね!?」
(西股)
「そうです。かなり大胆な行動といえるでしょう。そして、北条氏はそのまま扇谷上杉氏の本拠地・河越城を落としてしまいました」
(中村)
「ええっ! 深大寺城の兵は気づかなかったんですか!?」
(西股)
「本当に一瞬の隙をつかれたんでしょうね。北条氏の作戦勝ちです。深大寺城は一晩にしてその価値を失ってしまい、廃城となりました」
(中村)
「そんなぁ、これだけ絶好の立地に築いたのに・・・。なんだか悔しい!」
(二川)
「こんな話を聞いたら、扇谷上杉氏と深大寺城に肩入れしたくなりますね。城を活かすも殺すも、結局は人次第なんだなぁ・・・」
(西股)
「さあ、そろそろお昼にしましょうか!」
舌状台地から湧き出た豊かな水を使った深大寺蕎麦に舌鼓! 真夏の城歩きの後にツルッとのどごしのざる蕎麦は最高だ
●本日の反省点●
立地や街道、その当時の勢力関係などを知ってはじめて、なぜここに城が築かれたのか、本当の意味が読み解けるんですね。今度は縄張だけじゃなく、その周囲の土地にも目を向けたいです。それにしても、深大寺城をスルーするなんて! 扇谷上杉氏が不憫すぎる〜!!(中村)
——城を築かれた理由は立地にあり。訪城する前に、どんな土地か調べておくと、より城への理解が深まるだろう。次回もお楽しみに!
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[城名]深大寺城(東京都調布市)
[アクセス]京王線調布駅からバス約15分で深大寺参詣道前
[駐車場]なし。少し離れた神代植物公園の駐車場か、近隣の有料駐車場を利用しよう
[見学時間]1時間くらい
[服装]公園として整備されているので普段着・スニーカーで大丈夫。ただし腰曲輪は整備されていないので、長袖長ズボン推奨。
[トイレ]入口に1つ有り。
[その他]城域内にはベンチが多数、麓の水生植物園にもある。深大寺参詣道にはレストランや売店もたくさんあるので、昼食には困らないだろう
西股総生(にしまた・ふさお)
1961年、北海道生まれ。城郭・戦国史研究家。学生時代に縄張のおもしろさに魅了され、城郭研究の道を歩む。武蔵文化財研究所などを経て、フリーライターに。執筆業を中心に、講演やトークもこなす。軍事学的視点による城や合戦の鋭い分析が持ち味。主な著書に『戦う日本の城最新講座』『「城取り」の軍事学』『土の城指南』(ともに学研プラス)、『図解 戦国の城がいちばんよくわかる本』『首都圏発 戦国の城の歩き方』(KKベストセラーズ)、『杉山城の時代』(角川選書)など。その他、城郭・戦国史関係の研究論文・調査報告書・雑誌記事・共著など多数。
執筆/かみゆ歴史編集部(滝沢弘康・二川智南美・中村蒐)
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。手がける主なジャンルは日本史、世界史、美術史、宗教・神話、観光ガイドなど歴史全般。主な城関連の編集制作物に『日本の山城100名城』『超入門「山城」の見方・歩き方』(ともに洋泉社)、『よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書』『完全詳解 山城ガイド』(ともに学研プラス)、『戦国最強の城』(プレジデント社)、『カラー図解 城の攻め方・つくり方』(宝島社)、「廃城をゆく」シリーズ(イカロス出版)など。