お城の現場より〜発掘・復元最前線 第29回【興国寺城】北条早雲旗揚げからはじまる東駿河の拠点城郭

城郭の発掘・整備の最新情報をお届けする「お城の現場より〜発掘・復元・整備の最前線」。第29回は、北条早雲最初の居城と伝わる興国寺城(静岡県沼津市)。北条早雲や武田信玄など名だたる名将たちが重要視した境目の城はどのように姿を変えてきたのか、沼津市文化財センターの木村聡さんが紹介します。



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興国寺城は、愛鷹山の尾根を利用している。本丸・二の丸・三の丸が直線的に並ぶ縄張を持ち、本丸には天守台と伝わる礎石建物遺構がある

名だたる武将が関わった駿河・甲斐・伊豆の境目の城

興国寺城は現在の静岡県沼津市根古屋に位置する平山城である。ここは長享元年(1487)北条早雲(伊勢宗瑞)が今川氏の家督争いを治めたことで、今川氏親より城を賜ったと伝えられることから、早雲の旗揚げの城として名高い。

さらに天文18年(1549)には今川義元によって本格的な城普請が行われ、その後慶長12年(1607)の廃城に至るまで、今川→北条→武田→徳川→豊臣(中村)→徳川(天野)と支配者が次々と入れ替わりながらも、一貫して東駿河の拠点城郭として機能した。今も良好に残る遺構群に加え、このような歴史的背景から1995年には国史跡として指定されており、以後沼津市教育委員会による発掘調査が行われている。

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本丸の大土塁。発掘調査の結果から16世紀末以後の遺構と考えられているが、石垣が張られていない見た目から戦国時代の遺構と勘違いする人も多い

発掘調査で見つかる100年間の痕跡

本丸虎口(出入口)では、礎石門跡や石組み水路、空堀が検出された。礎石門跡の規模は幅5.4m、奥行3.6mの3間×2間の構造で、西側に石組み水路が通っている。本来は土塁に両端を挟まれた櫓門であったと推測され、さらに南東側に1.5mほどの距離で礎石が近接することから潜戸があったと考えられる。

そして礎石門の前面には空堀が掘られ、地山掘り残しの土橋が備わっていた。空堀や石組み水路から出土した遺物には17世紀前半のものが含まれていることから、徳川氏家臣の天野康景(あまのやすかげ)が治めていた段階に使用されていた虎口と判断される。

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本丸石組み水路の検出状況。水路からは宝篋印塔などの転用石材も確認されている

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本丸虎口の礎石門跡(東から撮影)。水路跡をまたぐように6つの礎石が検出された

さらに虎口の調査を進めたところ、空堀の前面において人為的に一気に埋め戻された三日月堀が検出された。堀底には16世紀後半の遺物が出土しているが、埋め戻された覆土には16世紀末以降の遺物が1点も含まれないまま埋め戻されていることから、堀の破却は16世紀後半~末までに行われたと考えられる。

つまりこの段階で、三日月堀を完全に埋め戻したうえで、櫓門に付け替えるという改修が行われていることになる。この改修は城の中の象徴的な空間をあえて人の目に見えるように破却する「城割り(破城)」が行われたのだろう。

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本丸虎口で検出された三日月堀。堀底から16世紀後半の遺物が出土していることから、武田・徳川段階の遺構と考えられている

このように城内では江戸時代の遺構だけではなく、戦国期の遺構が発見される例がいくつかある。なかでも最古級の遺構は、街道と接する三の丸にて検出した「版築遺構」である。

この遺構は上層に後世の遺構が重複することから、一部のみの検出であって全容は明らかではないが、黒色と黄色の土を交互に荒く突固め、さらにそれを石列が方形に囲み、15世紀後半の遺物が出土する。その構造から城郭遺構ではない可能性が高く、今川義元による城の本格普請の前から存在した大型建物の基礎構造などの性格が考えられる。

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黒色と黄色の土を荒く付き固めた三の丸の版築遺構の検出状況

なお、城内全域における中世の出土遺物は13世紀に属するものも少量ながら認められるが、主体となっているのは15世紀後半以降で、それ以後約100年間に渡っての遺物が一定量を保ちながら出土している。このことは文献史料によって示されている「戦国期を通して機能した拠点城郭」という性格を裏付ける成果である。

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深さ20mを超える大空堀。江戸時代の絵図では、城域北端の境界となっている

沼津市教育委員会では、今後も調査研究を進めるとともに保存活用計画の策定、さらには復元整備を実施していく予定であるが、あわせて現段階でも城に親しんでもらえるような活用を検討している。特に2019年は北条早雲没後500年ということもあり、講演会や現地見学会などもおこなわれる。ぜひ、こうした機会を利用して城に足を運んでもらいたい。


興国寺城(こうこくじ・じょう/静岡県沼津市)
北条早雲旗揚げの地として知られる城。東駿河の要衝に位置していたため、今川氏、北条氏、武田氏の間で激しい争奪戦が行われた。武田氏滅亡後は徳川領、徳川家康の関東移封後は豊臣支配下の中村一氏領となる。関ヶ原の戦い後に家康の腹心・天野康景が城主となるが、天領(幕府の直轄地)の百姓を殺傷した足軽を康景がかばい改易となった事件の後、廃城となった。

執筆/木村聡(沼津市文化財センター)

写真提供/沼津市教育委員会

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