【日本100名城・広島城】激動の歴史を見届け、市民の声で再建された天守

関ヶ原の戦い、幕末、日清戦争そして第二次世界大戦。歴史のターニングポイントの中で取り巻く環境が変わってきた広島城。戦後復興の中で、再建を願う市民の声の高まりから天守が建てられました。広島のシンボルでもある路面電車が走るのは、かつて広島城の堀だった場所もあります。広島城を通じて、広島の歴史を振り返ってみてはいかがでしょうか。



戦後復興とともに再建された広島城天守

広島大本宮跡、広島城天守
基礎の石が残る広島大本営跡(手前)と広島城天守が激動の歴史を物語る

現在の広島城天守は、昭和33年(1958)に再建されたコンクリート造りです。昭和20年(1945)8月6日に起きた原子爆弾の投下によって倒壊。門や櫓は焼失してしまいました。

昭和26年(1951) 、広島県で第6回国民体育大会に先立って開催された体育文化博覧会に合わせて、模擬天守(木造)が建てられました。国体終了後に解体されるものの、広島市民による天守再建を求める声が高まるきっかけとなりました。

広島城、水堀
近代的な街並みに溶け込む広島城。水堀に天守がよく映える

さらに昭和28年(1953)には、城跡が国の史跡指定を受け、天守再建の機運が盛り上がりました。広島復興大博覧会に合わせて、鉄筋コンクリート製の天守外観の復元が決定。昭和33年(1958)、広島復興大博覧会前に天守を再建。会期後には広島城郷土館として開館し、平成元年(1989)に行った展示内容のリニューアルを経て、現在へと至っています。

平成6年に復元された二の丸

表御門、御門橋
二の丸入口にあたる表御門と内堀に架かる御門橋、1階建ての平櫓、さらに平櫓からのびる多門櫓

天守と同様、原爆の被害を受けた二の丸も復元されています。二の丸は表御門(おもてごもん)、平櫓(ひらやぐら)、多聞櫓(たもんやぐら)、太鼓櫓(たいこやぐら)から構成され、平成6年(1994) までに、戦前の写真・図面や発掘調査の成果を元にして、木造で江戸時代の姿に復元されました。

二の丸、馬屋、井戸
二の丸に残る馬屋や井戸などの遺構。原爆被害により、石垣を残して失われた

広島藩が残した記録によれば、時代によって二の丸は姿を変えています。そのため、江戸時代後期の姿を基準として復元されています。

二の丸は本丸の南方にある小さい区画で、馬出(うまだし)と呼ばれる構造になっています。出入口に築かれた区画が馬出で、出入口を守り、また外部へ出撃する際の拠点としての役割を備えています。

毛利輝元が築城し、福島正則が改易となった歴史舞台

五重五階、広島城天守
昭和33年(1958)に再建された五重五階の広島城天守。元々は大天守に小天守2基を連ねた

復元のもとになった広島城は、天正17年(1589)に毛利輝元(もうりてるもと)が築城に着手しました。「三本の矢」のエピソードで知られる毛利元就(もとなり)の孫にあたる毛利輝元は、120万石の大大名として中国地方を治めました。

居城を内陸の吉田郡山城(広島県安芸高田市)から、毛利元就が重要視していた広島湾側へと移転。太田川デルタを城地としたため、地盤が軟弱で難工事となりました。天正19年(1591)に広島城に入城するものの、本丸など主要部分のみが完成していました。その後も工事は進められ、文禄5年(1599)に落成しました。

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、毛利輝元は西軍の総大将を担いました。西軍が敗れてしまったため広島から離れることになり、周防および長門(山口県)へと転封。完成した広島城で毛利輝元が過ごしたのは、およそ1年という短期間だったのです。

広島城中堀跡、城郭
二の丸から南に約200m、鯉城通り沿いの広島城中堀跡。かつての城郭は約1㎞四方の規模があった

関ヶ原の戦い後には、福島正則(ふくしままさのり)が広島城主となり、広島城下の発展のため、城の北部を通っていた西国街道を城下に引き入れるなど、商業の発展に努めました。しかし、元和4年(1618)におこなった広島城の普請で、江戸幕府への事前の届出を怠ったことをきっかけに、改易となります。その後は、和歌山城主の浅野長晟(あさのながあきら)が広島城主となり、明治時代まで浅野氏の統治が続きます。

明治時代の日清戦争では大本営が置かれる

幕末には、元治元年(1864)の第一次長州戦争、慶応元年(1865) の第二次長州戦争において、広島は幕府軍の最前線基地となりました。

広島大本宮跡、本丸御殿
広島大本営跡には、広島藩の役所と藩主の住居を兼ねた本丸御殿があった

明治時代に入ってからも広島城は軍事的に重視され、明治27年(1894)の日清戦争の際には、大本営(戦争を指揮する機関)が置かれます。広島鎮台司令部(ちんだいしれいぶ)として建てられた2階建ての木造洋館。原爆による倒壊のため、現在は基礎などの石が残るばかりです。

広島城の堀の跡に敷かれた路面電車

路面電車、シンボル
広島市内を走るシンボル的存在の路面電車。石畳が景観を引き立てる

明治時代の終わりごろ、広島城の堀を埋め立て、埋立地に路面電車を敷設することになりました。敷設の特許を受けたのは、広島電気軌道株式会社。紆余曲折を経て、大正元年(1912)11月23日に広島駅~相生橋間、紙屋町~御幸橋間と八丁堀~白島間で開業しました。

その後、広島瓦斯電軌を経て広島電鉄株式会社を設立。第二次世界大戦の終戦から1ヵ月後の枕崎台風の被害を受けた際には、川に落ちた車両を引き上げて利用するなど復旧に貢献。広島の復興を見届けながら、人々の移動を支えてきました。

広島城の約1km南には、世界遺産の原爆ドームもあります。広島城を通じて、広島が積み重ねてきた歴史に思いをめぐらせてみてはいかがでしょうか。


住所:広島県広島市中区基町21-1
電話番号:082-221-7512(公益財団法人広島市文化財団 広島城)
料金:大人370円、シニア(65歳以上)180円、高校生180円、中学生以下無料
入館時間:9~18時(12~2月は9~17時)※入館は閉館30分前まで
アクセス: 山陽本線・山陽新幹線「広島」駅から広島電鉄市内線1・2・6号で約15分、「紙屋町東」停留所下車、徒歩約15分

執筆・写真/藪内成基(やぶうちしげき)
奈良県出身。国内・海外で年間100以上の城を訪ね、「城と旅」をテーマに執筆・撮影。異業種とコラボした城を楽しむ体験プログラムを実施。旅行雑誌『ノジュール』(JTBパブリッシング)などを編集。
※歴史的事実や城郭情報などは、各市町村など、自治体や城郭が発信している情報(パンフレット、自治体のWEBサイト等)を参考にしています。

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