現地レポーターが語る!会津若松城の見どころ5選

日本全国には、お城が大好きで、日々SNSなどでお城の情報を発信し続けている方が、たくさんいらっしゃいます。今回は、会津にルーツをもつ「武るる」さんが、幼少期から通い続けて、特別な思い入れを抱く会津若松城(別名:鶴ヶ城)の見どころをご紹介します!

私の父は会津の生まれで、私の中に半分は会津の血が流れており、会津の人と接する中で「ならぬことはならぬものです」という教えとその意味、そして頑なで実直な会津の人の心意気 “会津っぽ” の精神も自然に学んだような気がします。

会津戦争は、己が信念を曲げず、徳川家のために最後まで尽くすと決めた “会津っぽ” にとっては、避けられぬ戦いであり、白虎隊や婦女子たちの自決といった悲劇をもたらしています。

“会津っぽ” の意地を見せた会津若松城は、私にとって思い入れの深い城であると同時に、父の帰省の際に度々訪れ遊んだ城で、石垣造りの城構えに子供ながらにカッコいいと思い、私がお城好きとなった原点の城でもあります。

会津若松城天守
 夕陽に照らされた会津若松城天守

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康ゆかりの武将が治めた会津若松城

歴代の会津若松城主の中で、蒲生氏郷(がもううじさと)と加藤嘉明(かとうよしあきら)、保科正之(ほしなまさゆき)が今日の会津の礎を築いた人物として挙げられます。

蒲生氏郷は織田信長の娘婿です。郷里の近江の国より技術者を呼び寄せ、城や城下町の整備拡張を行い、東北では珍しい石垣造りの城を築き、「鶴ヶ城」と名を改めました。また、織田信長のように市を開き産業の発展に勤め、漆器や醸造などに力を入れ、今日の会津の産業の礎を築いています。

蒲生氏転封の後に会津に入城したのが、豊臣秀吉の子飼いの武将、賤ヶ岳(しずがたけ)の七本槍の一人である加藤嘉明です。加藤嘉明は豊臣秀吉のように検地を実施し、会津の石高を明確化にし、街道の整備などに努めています。加藤嘉明の子・明成(あきなり)の時代に西出丸、北出丸の増築を行うなどし、今日の会津若松城が完成しました。

その後、加藤氏に代わり入城したのが、徳川家康の孫・保科正之です。保科正之は、民のために多くの法令を制定するとともに領国の制度を確立。以降揺るぎない保科家の統治が明治まで続きます。

家訓十五条を定め、徳川本家に対する忠義と会津藩士の心構えを精神的な柱としました。
この教えが幕末まで広く浸透したため、明治元年(1867)の会津戦争でも、頑なに徳川側として新政府軍と敢然と戦うという道を選び、白虎隊の悲劇も起こりました。

新政府軍さえ落とせなかった会津若松城の見どころ5選


1.新政府軍もここより先に進めなかった北出丸の備えがすごい

北出丸は加藤嘉明の子・明成の時代に本丸を補強するために造られました。北出丸の構えは東側と西側の両隅に隅櫓と城門(ともに現存せず)を配し、東西ほぼ対称の造りになっています。北出丸の東側が追手口で、追手門(現存せず)の前面には大腰掛を両側に配し、外桝形の様相を呈していますが大腰掛間に城門はありません。

左右に配された雁木のことを大腰掛と呼びますが、前面から来る敵を両側の陰でひっそりと待つ会津若松城独特のこの構えが‘会津っぽ’の実直さを表しているようで私のお気に入りの場所でもあります。

北出丸に侵入した敵は、後方を振り返ると伏兵郭と二の丸が、左手には本丸と帯郭が、前方には西出丸があり、三方向から狙い撃たれることになります。そのため別名「みなごろし丸」とも呼ばれています。

会津戦争ではここが一番の激戦地でした。新政府軍は猛攻を加えますが遂にここより先に進むことは出来ず、城を落とせませんでした。籠城の末、会津若松城が開城するのはそれから1カ月後のことでした。

 
会津若松城、追手門跡、大腰掛け
追手門跡の前面に配された大腰掛


2.太鼓門跡の背後に設けられた合理的な「合坂(あいさか)」がすごい

北出丸を過ぎ、椿坂を上ると太鼓門跡がありますが、太鼓門跡の城内側に廻ると、巨大な石垣上にⅤ字の階段が見られます。これは「武者走り」といい、籠城の際、兵が石垣上に登り降りするために使用されます。通常は石垣に対して平行に階段を築きますが、会津若松城の場合は最小限のスペースで垂直に築かれています。

また、左右Ⅴ字の階段とすることで、兵が一度に二倍登れるという合理的な造りをしています。このⅤ字の階段のことを「合坂」といいます。私は子供のころ、この階段を登ったことがあり、お城の石垣に階段があるというのを初めて知った場所でもあります。なお、現在は登ることはできません。

 
会津若松城、太鼓門、合坂
太鼓門の城内側に配された「合坂」

3.干飯櫓から天守まで連結したトリプル攻撃がすごい

太鼓門跡を潜ると壮大な五層の天守が見えてきます。帯郭を経て天守を左に見ながら鉄門(くろがねもん)を潜り、本丸へ到るのが加藤氏の時代に完成された登城ルートです。本丸へと通じる表門にあたる鉄門ですが、この門は天守から走長屋、鉄門、南走長屋、干飯櫓までが連結され、鉄壁の守りを誇っており、会津若松城一番の見どころでもあります。

鉄門を潜るためには、後方の天守、左側の走長屋、前方の鉄門の三方向から攻撃を受けることになりますし、運よく鉄門を潜ったとしても、前方の干飯櫓、右側の南走長屋、後方の鉄門の三方向から攻撃を再度受けることになります。

 
鉄門、干飯櫓、会津若松城
天守から望む。天守から鉄門、干飯櫓まで連結された構造は鉄壁の守りを誇る

鉄門を潜る際は周りの様子を眺めながら潜ってみてください。城内から狙われていると思うと生きた心地はしないですよ。これらは復興再建されたものですが、ほぼ当時のままで復元されているので往時の様子を十分感じることができます。

鉄門越しに走長屋と天守を見るのは、今も昔も変わらず好きな光景です。インスタ映えもするので、みんなここで必ずといっていいほど写真を撮っていますね。

会津若松城、鉄門、走長屋、天守
鉄門、走長屋、天守と連結されたこの景色は定番の撮影スポット

4.本丸東側の高石垣がすごい

本丸から二の丸方面へ向かうと、廊下橋がありますが、その壁面に築かれている石垣が会津若松城で一番高い石垣です。私が子供ながらに会津若松城が難攻不落だと思ったのはこの石垣を見た時でした。

この石垣がある本丸東側は廊下橋の下から壁面まですべてが石垣で出来ており、そして少しだけ天守閣が見え、子供の私が会津若松城をカッコいいと思ったのもまさにこの風景でした。打ち込みハギの高石垣は加藤氏の時代に造られたもので、高さは20mもあり、上に行くに従って急こう配になっています。
 
会津若松城、高石垣
本丸東側の高石垣

5.白虎隊の気分になって飯盛山から会津若松城を望む

白虎隊が自刃した地、飯盛山(いいもりやま)には白虎隊志士の墓があり、今も訪れる人は多く、線香の煙が絶えず漂うほどです。

白虎隊とは少年兵で構成された部隊で、士中二番隊が戸ノ口原の戦いに敗れ飯盛山に敗走した際、会津若松城方面から煙が上がるのを目の当たりにし、もはやこれまでと意を決し自決して果てました。藩校日進館で“会津っぽ”の精神「ならぬことはならぬものです」を学んだ彼らにとって、敵に生き恥をさらすということを望まなかった結果だったのでしょう。

彼らに思いを馳せながら飯盛山から会津若松城を望むのは、とても感慨深いものです。飯盛山からは今でも会津若松城が望めますので、彼らの気持ちになってお城を望み、会津の歴史を感じてみてはいかがでしょうか。
 
飯盛山、会津若松城
飯盛山から会津若松城を望む


住所:福島県会津若松市追手町1-1
電話番号:0242-27-4005(鶴ヶ城管理事務所)
天守閣入場時間:8時30分~17時(入城締切は16時30分)。城内散策は時間制限なし
入場料:大人410円(天守閣・麟閣共通券 大人510円)、小中学生150円
休館日:無休
アクセス:JR磐越西線「会津若松駅」から周遊バス「ハイカラさん・あかべぇ」で約20分、「鶴ヶ城入口」下車、徒歩約5分

執筆・写真/武るる
アメブロ「武将と城の旅。時々観光とグルメ(地図付き)」にて城や武将の墓、銅像、古戦場など武将と城に関する情報を発信中。

※歴史的事実や城郭情報などは、各市町村など、自治体や城郭が発信している情報(パンフレット、自治体のWEBサイト等)を参考にしています。

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