お城の現場より〜発掘・復元最前線 第28回【丸岡城】総合的な調査で明らかになった丸岡城天守の価値

城郭の発掘・整備の最新情報をお届けする「お城の現場より〜発掘・復元・整備の最前線」。第28回は、天守の築造年代判明で注目をあびる丸岡城。天守の築造年代はどのような方法で特定されたのか、寛永以前の天守はどのような姿だったのかを坂井市教育委員会の堤徹也さんが紹介します。



丸岡城遠景
丸岡城遠景。天守は、江戸時代以前から残る12の天守の一つで、国の重要文化財に指定されている

現在の天守はいつ建てられたものなのか?

2015年から、丸岡城天守の文化財的価値を再検証するため、多岐にわたる専門家の協力を得て総合的な調査を実施した。先般調査成果をとりまとめた報告書が刊行されたので、その概略を述べる。

天守は1948年に発生した福井地震によって倒壊し、その後1952~55年に修復工事が実施された。その際に大幅に部材を取り換えていることが文化財的価値を落としているのではないかという見方もあった。ところが、改めて調査したところ、柱や梁などの主要構造材は約7割が江戸時代からのものであることが確認できた。つまり、使用されている部材も含めて非常に残りが良い建物であることがわかった。

丸岡城天守
丸岡城天守。福井地震で倒壊した後、可能な限りもとの部材を使って再建されていたことが、今回の調査で確認された

そもそも、丸岡城天守の創建年代については2説が知られていた。柴田勝豊の築城期まで遡る「天正説」と本多成重(ほんだなりしげ)入城以降の「慶長以降説」である。丸岡城天守は望楼型の天守で、天守台は野面積、軒裏などを漆喰で塗り込めない古風な様式から、天正期の創建が穏当とされていた。ところが、現在の天守に使われている部材や保存している古材に対して自然科学的な調査を実施したところ、伐採年代が1620年代以降と推定される部材が多いことがわかった。このことから、現在の天守は寛永期(1624~)、丸岡藩が成立したころに初代藩主・本多成重によって整備されたと考えるのが妥当であろう。

なぜ天守の築造年代はこれまで不明確だったのか

では寛永期に作られた丸岡城天守とはどのようなものであったか。戦前の修理記録等によって、現在とも異なる外観であることがわかった。丸岡城天守は石瓦という現在では唯一の例である。ところが、修理記録によると石瓦の下に杮(こけら)が葺かれており、当初は杮葺きであったことがわかった。

柿葺
1940〜42年修理工事時、屋根解体途中の写真。柿葺の痕跡が確認できる

笏谷石、滝ケ原石
石瓦で葺かれた現在の屋根。青い石は福井市足羽山(あすわやま)産笏谷石(しゃくだにいし)、白っぽいものは石川県の滝ケ原石。滝ケ原石は昭和期の修理で取り替えられたもの

また、3階の廻り高欄は後世の改造で、当初は腰屋根であったことが古写真からも確認できた。さらに、妻を飾る懸魚は漆塗りで、鯱は金箔押しであったと記録されている。加えて、戦前修理時に撮影された写真に天守台上面を撮影したものがあり、外周土台と入側柱の間に内向きの石列が確認でき、当初は床下が掘り窪められていた可能性が考えられる。

丸岡城、天守台上面
1940〜42年の修理工事時に天守台上面を写した写真。内向きの石列が確認できる

こうした情報を整理して作成されたのが「寛永期丸岡城天守」の復元想像図である。現在の丸岡城天守とも異なる外観であったことがわかる。

丸岡城天守復元想像図
寛永期丸岡城天守復元想像図。右下は断面図

では寛永期以前はどうであったか? 明確な資料は確認できないが、前身となる建物があった可能性が考えられる。天守台は矢穴技法を用いない野面積で、類似例と比較しても天正期まで遡る可能性が指摘されている。また、絵図では慶長期に描かれた越前国絵図に3階建天守が描かれている。

つまり、現在の天守が前身建物を踏襲して建てられた可能性も否定できず、このことが古い要素と新しい要素が混在し、創建年代が判然としなかった理由とも考えられるのである。

天守の調査は一定の成果が得られたものの、城郭全体としては未だ充分とは言えず、毎年わずかずつ敷地の発掘調査を進めているところである。今後も天守だけでなく城郭としての調査と保全に向けて取り組んでいく。


丸岡城(まるおか・じょう/福井県坂井市)
丸岡城は天正4年(1576)、越前一向一揆を平定した織田信長の命により、柴田勝家の甥・柴田勝豊(しばたかつとよ)が築いた平山城。天守は独立式望楼型天守で、重要文化財に指定されている。柴田、青山、今村、本多、有馬と城主が変わり、明治以降一時民有となったが寄付を受けて公有となった。

執筆/堤徹也(坂井市教育委員会丸岡城国宝化推進室)

写真提供/坂井市教育委員会

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