超入門! お城セミナー 第64回【歴史】江戸城はいつから天皇の住まいである皇居になったの?

お城に関する素朴な疑問を、初心者向けにわかりやすく解説する連載「超入門!お城セミナー」。新天皇の即位と新元号「令和」のスタートにより、メディアでは連日、皇居内外の様子が伝えられています。現在、天皇が住まう皇居は、かつて徳川将軍家の江戸城であったことをご存知でしょうか? どうして江戸城が皇居へと変化したのか、なぜ天皇一家の住居となったのか。江戸城から皇居へと役割を変えた、幕末以降の歴史物語を紹介します。

二重橋
皇居屈指の撮影スポットである二重橋。写真左側に建つ西の丸大手門は、明治以降、皇居の正門となっている

京都や大阪が新首都になる可能性もあった!?

2019年5月1日、新天皇が即位され、元号は「平成」から「令和」へと改元されることになります。「令和」の響きもすっかり耳なじみがよくなりましたね。退位と即位に関する報道が気になる方も多いかと思います。

さて、天皇が住まう皇居が、かつて徳川将軍家の政庁かつ住居だった江戸城跡であることをご存知でしょうか? 皇居が江戸城だったことをご存知でも、「なぜ江戸城が天皇の住居になったのか」「いつから〈皇居〉と呼ばれているのか」「どうして天皇家は西の丸に住まわれているのか」といった点は知らないという方も多いかと思います。新天皇即位というまたとない機会ですから、今回は江戸城から皇居へと役割を変えた、幕末以降の変化を学んでいきましょう。

徳川家康が江戸幕府を開いてからおよそ260年間、徳川家は江戸城を本拠に全国を治めてきたわけですが、幕末になってその権威が揺らぎます。アメリカやイギリスなどの列強が次々と押し寄せ、幕府という古い体制では新しい時代に対応できないと誰もが考えるようになったからです。江戸幕府と薩摩藩や長州藩などの倒幕派が激しいつばぜり合いを繰り広げた結果、最終的には幕府が白旗を上げて、倒幕派=明治新政府に江戸城を差し出しました。新政府軍は江戸への総攻撃を決めていたのですが、新政府軍の西郷隆盛と幕府側の勝海舟との会談によって、わずか数日前に総攻撃は中止され、江戸城が無血開城になったことはよく知られています。

この江戸城の無血開城によって、江戸=東京が明治新政府の首都にスライドしたと考えがちですが、実はことはそう簡単ではありません。江戸城開城の時点では、新時代の首都をどこに置くか決定していなかったからです。明治新政府は明治天皇を主体とする政治体制を想定していましたから、京都の人々は当然京都に政治権力が戻ってくると信じていました。また、新政府の中心人物である大久保利通は、商業都市として栄えていて、京都にも近い大阪への遷都を提案しています。京都と江戸の両方を首都とすべしという「東西両都論」も真剣に議論されていました。

京都御所
明治以降も、京都御所(内裏)が引き続き天皇の住居となる可能性もあった。写真は京都御所内でも格式の高い建礼門

そうした中、「日本郵政制度の父」と呼ばれる前島密(ひそか)が江戸遷都論を主張します。彼は江戸を推す理由として、「新時代に蝦夷(北海道)の開発は不可欠であり、江戸のほうが近いこと」「江戸湾や横須賀など良港があること」「大阪市街より江戸のほうが広く、都市開発をしやすいこと」などを挙げましたが、理由のひとつとして「江戸にある大名屋敷や官庁をそのまま新政府の役所に利用することができ、江戸城を皇居にあてがうことができる」という点も主張しました。京都にしろ大阪にしろ、役所の新築をはじめ大規模な都市開発が必要であるが、江戸を首都にすれば今ある建物をそのまま再利用できる。その場合、天皇の住まいは、これまで最高権力者が住んでいた江戸城にすればいい、という考えです。新政府は深刻な財政不足だったので新たな都市開発をする余裕などはなく、前島密の主張を受け入れることにします。そして江戸無血開城から数か月後、江戸は「東京」に、江戸城は「東京城」に改称されました(以降の説明では便宜的に「江戸城」と記述します)。

天皇の住居が江戸城西の丸になったのはなぜか?

明治天皇が江戸城に入城したのは、東京と改称されてから約2か月後のこと。ただし、その時点で江戸城が皇居になると発表されたわけではありません。東京を首都に据えることは規定路線だったのですが、天皇の住まいが京都から東京に変わることを発表したら、京都市民の猛反発にあうこと必至。そのため、新政府は天皇が地方へ外出する「行幸」という名目にして、天皇を江戸城へ迎え入れます。

最初の行幸の際は、天皇はわずか2か月しか江戸城に滞在しておらず、翌年明治2年(1869)に2度目の東京行幸を実行し、江戸城が天皇の住まい兼政務の場になることが世間に示されました。このとき「東京城」は「皇城」へと名を変えています。ちなみに、都を移すことを「遷都」と言いますが、明治新政府は結局一度も「東京が首都である(京都はもう都ではない)」とは発表していないため、「東京奠都(都を定めるという意味)」と呼ばれることもあります。ただし結論的には、天皇の江戸城入城をもって、東京に遷都したという事実は変わらないでしょう。

さて、この東京行幸で明治天皇は、西の丸大手門から江戸城へ入城しました。なぜ、正規のルートである大手門ではなく、西の丸大手門から入ったのか? それは、本丸と二の丸がたいへん荒廃しており、使い物にならなかったためです。時代をややさかのぼりますが、文久3年(1863)に江戸城の本丸御殿が、慶応3年(1867)に二の丸御殿がそれぞれ全焼してしまいます。本来であれば諸大名に命じてすぐに再建するのですが、幕末の動乱に巻き込まれていた幕府にとって、御殿を再建する経済的余裕も諸大名に命じる権威も失われていました。幕府の機能や将軍の住まいは残った西の丸御殿に移されており、入城した明治天皇はこの西の丸御殿を仮住まいとしたわけです。

江戸城本丸、天守台、中雀門
江戸城本丸の天守台東側(左)や中雀門(右)の焼けただれた石垣は、幕末の大火事の跡である

もし、明治天皇が入城した段階で本丸御殿が健在であったなら、そのまま本丸に宮殿が建てられ、今も本丸を住まいにされている可能性が高いでしょう。現在、本丸や二の丸を見学できているのは、幕末に幕府が財政難に陥ったおかげと言えなくもありません。

唯一現役の“城”であり、波瀾に富んだ歴史を歩む江戸城


明治天皇が江戸城に入城されたのちの足取りも見ていきましょう。

江戸城改変としてまず行われたのは、内濠・外濠に設置された「見附」の撤去でした。江戸城は濠の要所要所に「見附」と呼ばれる枡形虎口(出入口)を設けていたのですが、それを取り払って、人々の往来をスムーズにしたわけです。市民の目に届く場所から変えていくことで、城主が変わったこと、時代が変わったことをアピールする目的もあったのでしょう。

明治6年(1873)には、西の丸御殿が女官部屋からの出火により全焼。この火災復興のため、物資搬入が楽になるように坂下門の櫓門が90度回転し、現在の向きに変更されました。その後、二の丸大手門に鉄橋と眼鏡橋が設けられたのち、明治22年(1889)にようやく西の丸に新宮殿が建てられます。明治新政府も江戸幕府に負けず劣らず財政難に悩まされていたため、新築がこれほど遅くなったようです。明治天皇にとっては、ようやく借り物ではない「わが城」を手に入れたわけです。新宮殿竣工ととともに、「皇城」は「宮城」へと改称されました。

宮内庁、出入り口
西の丸への交通をスムーズにするため、坂下門の高麗門と枡形は撤廃され、櫓門は90度回転して再設置された。現在は宮内庁の出入り口にもなっている

その後、昭和20年(1945)の東京大空襲によって新宮殿などの建造物はほぼ全焼。戦後は名称が「皇居」と改められ、東京オリンピックを機に北の丸に武道館が建てられるなど、北の丸公園が整備されました。さらに、昭和42年(1967)には本丸や二の丸が東御苑として一般公開され、現在に至ります。即位の礼が行われた宮殿や天皇の住居である御所をはじめ、生物学研究所や宮内庁庁舎が建つ西の丸と吹上は一般には立ち入りできませんが、正月の一般参賀や春・秋に実施される「乾通り一般公開」では一部区画に入ることができ、貴重な城跡や豊かな自然に触れることができます。

江戸城(皇居)は天皇家が住まわれているという点で唯一現役の城であり、またこれほど紆余曲折の歴史を歩み、国民から注目されている城跡はありません。せっかく新天皇即位という歴史的出来事に立ち会うことができたのですから、まだ江戸城に行ったことがない人は、これを機会に訪れてみてはいかがでしょうか。

道灌濠跡
江戸城乾通り一般公開で見ることができる道灌濠跡。西の丸や吹上には武蔵野の豊かな自然が残る


執筆・写真/かみゆ歴史編集部
ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。かみゆ歴史編集部として著書・制作物多数。