2019/04/23
超入門! お城セミナー 第63回【武将】北条氏の小田原城はなぜ難攻不落と呼ばれるの?
お城に関する素朴な疑問を、初心者向けにわかりやすく解説する連載「超入門! お城セミナー」。今回のテーマは関東最強の堅城・小田原城(神奈川県)。支城網や惣構を活用し、幾度も大軍を退けた小田原城の波瀾万丈な歴史をご紹介します。(2022年5月更新)
関東の大大名・北条氏が居城とした小田原城。上杉謙信や武田信玄を寄せつけなかった名城である
戦国時代、関東最強の城とは?
天下を争う大名たちによって、多数の城が築かれた戦国時代。全国に数千、数万存在するとも言われる城郭の中で、「戦国一の難攻不落の城は?」と聞かれたら何城をイメージしますか? 多くの人が思い浮かべるのは、約20万の大軍を寄せ付けなかった豊臣秀吉の大坂城(大阪府)、近代戦も耐え抜いた熊本城(熊本県)でしょうか。徳川の大軍を2度追い返した上田城(長野県)も有名ですね。
しかし、関東にも戦国時代に名将たちの攻撃を跳ね返し続けた城があることはご存じでしょうか? その城の名は小田原城(神奈川県)。関東を五代にわたって支配した北条氏の本拠地です。
「小田原城って、豊臣秀吉が落としてるじゃん。本当に難攻不落なの?」と疑問に思う人もいらっしゃるかもしれません。確かに小田原城は籠城戦の末、豊臣軍に降伏しています。しかし、秀吉以前にこの城を攻めた名だたる武将たちは、ことごとく撃退されているのです。
小田原城は、もともと国人の大森氏の居城でしたが、北条家の初代・伊勢宗瑞(いせそうずい/北条早雲)が明応4年(1495)~文亀元年(1501)に攻略。彼の息子・北条氏綱(うじつな/家督相続から5年後に伊勢から改姓)の代から北条氏の本拠として使用されるようになりました。
小田原駅前に立つ北条早雲像。小田原攻略の際に、「火牛の計」を用いられたという逸話から、松明をつけた牛を従えている
小田原城は現在も建物や石垣が残っている城ですが、実はこの遺構、北条氏時代のものではありません。北条氏の滅亡後に城主となった徳川家康の家臣・大久保忠世(おおくぼただよ)によって、近世城郭へと改修されたのです。本丸の位置も昔と現在とは異なっており、北条氏時代は現在の本丸から400mほど北西にある八幡山古郭が中心部だったようです。八幡山古郭は東側が海、南西側と北東側に川が流れる攻めにくい地形。箱根と尾根続きになっている西側が唯一の弱点ですが、ここには現在小峯御鐘台堀切と呼ばれている3本の堀切を設けて尾根を遮断しています。
小峯御鐘ノ台堀切は惣構堀とも接続している。複雑にのびる壮大な堀のスケールは必見だ
さらに、敵を小田原城まで到達させないように、多数の支城を築いていました。北条氏の支城は、曲輪を囲む長大な横堀や土塁や角馬出での虎口(出入口)防衛が特徴で、地形を最大限に活かした縄張を持つ堅城揃い。北条氏は、これらの城に重臣や一族の将を配置。敵に攻められた場合は、相互に支援できる体制を整えていたのです。
北条氏の支城・滝山城。外郭は長大な横堀で囲み、二の丸を何重にも重ねた馬出で守っている。武田軍の猛攻にも耐えた堅城だ
謙信・信玄も攻め落とせなかった難攻不落の城
小田原城が堅城として名を馳せるようになったのは、3代目・氏康(うじやす)の頃。まず、攻めてきたのは「越後の龍」上杉謙信です。北条氏と敵対する国人を集めた謙信は、約10万の大軍で小田原城を包囲。城に猛攻をかけますが、北条軍の必死の抵抗により戦いは長期化します。膠着する戦況に国人たちの不満が募り、彼らをまとめきれなくなった謙信は約1か月間で小田原攻略を断念したのでした。
続いて攻めてきたのは、「甲斐の虎」武田信玄。謙信の失敗を知っていた信玄は、無理な城攻めは愚策と判断。氏康を挑発して城外におびき出す作戦を考えます。挑発のため、小田原城下に火を放つ武田軍。しかし、信玄の作戦を読んでいた氏康は、徹底して城に籠もり続けました。「いくら挑発してもムダ」と悟った信玄は、包囲4日目で甲斐に撤兵。その後、信玄は氏康と同盟し、北条領に攻め入ることはありませんでした。
信玄の侵攻後、氏康は大軍相手の籠城戦も意識するようになり、城下町まで囲む惣構(そうがまえ/城下町を含めて外側を堀などで囲んだこと)の築造をはじめています。惣構は城下の田畑も囲んでおり、籠城中でも食料生産が可能にしたのです。これにより、小田原城は本城が孤立しても戦える「難攻不落の城」となったのでした。
惣構遺構の一つ、蓮上院土塁。中央が窪んでいるのは、太平洋戦争末期の空襲で焼夷弾が直撃したためだ
稲荷森の惣構堀。小田原側法面(写真右)の高低差は約10mにもなり、城外からの侵入は難しくなっている
なぜ、小田原城は秀吉に屈したのか?
上杉謙信、武田信玄という戦国時代きっての戦上手の攻撃をしのいだことで、小田原城は堅城として一躍有名になりました。氏康の跡を継いだ氏政(うじまさ)は、里見氏との和睦で下総と北上総を得るなど着実に領地を拡大。北条氏の最盛期を築いたのでした。
しかし、豊臣秀吉の台頭により、北条氏の覇権に影が差します。短期間で全国の大名を配下に収めた秀吉は、天下統一の総仕上げとして関東に狙いをさだめたのです。北条氏の家臣が秀吉配下の大名・真田昌幸の城を奪う事件が起こると、秀吉はこれを大名同士の私闘を禁じる「惣無事令」違反だと批難。配下の大名たちに北条討伐を命じました。
北条攻めの契機となった名胡桃城(なぐるみじょう/群馬県)。小田原攻めの後に廃城となっている。なお、北条氏滅亡後、沼田は真田氏のものになった
天正18年(1590)春、全国から約21万の兵を集めた秀吉は、北条領へと出陣。初戦の舞台となったのは、障子堀で有名な山中城(静岡県)。秀吉は、甥の秀次に6万超えの兵を与えて、短期間で山中城を落とすように命じます。秀次は激しく城を攻め立て、多数の犠牲を出しながらも約半日で落城させたのでした。
自らの力を北方に見せつけるため、秀吉は山中城を短期間で落とすように厳命。豊臣・北条共に多くの兵を失う激戦の末、山中城は落城した。写真は激戦の舞台となった岱崎出丸
山中城落城後、豊臣軍は東海道で快進撃を続けついに小田原城に迫ります。しかし、彼らを出迎えたのは、総延長約9kmの惣構。城どころか城下町に近寄ることすらできない状況に、秀吉は長期戦で降伏させることを決め、諸大名に城を包囲させました。さらに、小田原の守城兵たちの戦意をそぐため、周到に策をめぐらせます。
まず一つが、小田原城に勝るとも劣らない陣城の築城。小田原城を見わたせる位置にある笠懸山を本陣と定めた秀吉は、総石垣に天守を持つ石垣山城をたった3か月で築きます。当時の関東には、石垣造りの城はありません。見たこともない城が突然間近に現れた北条の兵たちは、「秀吉ってヤツは、あんなすごい城を簡単に造れるのか!?」と驚愕。まんまと敵の士気を下げた秀吉は、北条軍を追い詰める次の一手を打ちます。
もう一つの策は、支城網の瓦解です。上野国の支城攻略をしていた、前田利家、上杉景勝、真田昌幸らに攻略ペースを上げるように命令。さらに、浅野長政や徳川家康の家臣たちを武蔵国や房総半島に送り込みました。支城攻略部隊は兵力にものをいわせ、破竹の勢いで支城を攻略します。6月に入る頃には、抵抗を続けている支城は八王子城(東京都)、韮山城(静岡県)、津久井城(神奈川県)、鉢形城、忍城、岩付城(いずれも埼玉県)のみとなります。
北条氏照の家臣・横地監物(よこちけんもつ)が守る八王子城は、1万5千の敵兵に激しく抵抗した。本丸である御主殿には、追い詰められた女性たちが身を投げたとされる滝が今も残る
次々に入る支城落城の報に、小田原城内は動揺。豊臣軍に内通しようとする者が続出する有様でした。6月下旬に最後の砦だった八王子城や韮山城が陥落すると、ついに氏政は降伏を決意します。こうして、北条五代を支え続けた小田原城は、はじめて敵に屈したのでした。
緻密な支城網と長大な惣構により鉄壁を誇った小田原城。秀吉は巧みな心理戦と圧倒的な動員力で小田原攻略を果たしましたが、近年の研究では落城の原因は「小田原城が鉄壁すぎた」ことも一因ではないかといわれています。城内で食料生産もできた小田原城は、単独でも数年間籠城が可能でした。城将たちは「自分の城が落城しても、小田原城さえあれば北条は安泰」と高をくくっていたため、敵の強さを知ると抵抗もせずに降伏してしまったのです。
2019年は、北条氏初代当主・北条早雲の死去から500年の節目の年。小田原城とその周辺では、北条時代を偲ぶイベントが多数開催されました。小田原城を訪れて、北条時代の小田原城や北条五代の当主たちに思いを馳せてみてください。
執筆・写真/かみゆ歴史編集部
ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。かみゆ歴史編集部として著書・制作物多数。