2019/04/18
萩原さちこの城さんぽ 〜日本100名城・続日本100名城編〜 第17回 苗木城 奇岩の地に立つ、木曽川をのぞむ絶景とファンキーな石垣
城郭ライターの萩原さちこさんが、日本100名城と続日本100名城から毎回1城を取り上げ、散策を楽しくするワンポイントをお届けする「萩原さちこの城さんぽ~日本100名城と続日本100名城編~」。17回目の今回は、日本100名城に選定されている、城からの絶景と迫力満点の石垣が魅力の苗木城を紹介します。
本丸口門から見下ろす矢倉跡。城内でも1、2位を争う撮影スポットだ
奇岩と石垣の絶品コラボレーション
「落城するのではないか」と思うほどに、多くの観光客が殺到している話題の城です。人気の理由は、城からの絶景と、迫力満点の石垣です。
とにかく強烈なインパクトを放つのが、岩盤と融合した石垣です。苗木城は全山が巨岩から成るため、石材が豊富。そもそも中津川は奇岩の地で、日本有数の景勝地である恵那峡も奇岩が多いことで知られます。石材はほとんどが花崗岩ですが、古い石垣には濃飛流紋岩も使われています。
岩盤に石垣を貼り付けたり差し込んだりと、苗木城の石垣は実に風変わり。ゴツゴツとした岩盤に巨石が荒々しく埋め込まれているかと思えば、統一サイズに加工した石がていねいに積み上げられていたり。自然の岩盤と人工的な石垣との異色のコラボレーションは芸術の域です。
じっくり観察すると、石垣の積み方や石材の加工のバリエーションが豊富なことに気づきます。大矢倉北西面の石垣は、石材の形が不規則で大小入り乱れた打込接ですが、台所門付近の石垣は隙間なく加工された切込接。5面にわかれる本丸口門南側の石垣は、上部だけ岩盤が露出し、上下段の石垣も積み方や勾配が異なります。苗木城の石垣は大きく6パターンあり、積まれた時期により違う表情を見せてくれます。
天守台も、かなり個性的です。石垣というより岩そのもので、よく見ると柱穴がたくさん彫り込まれています。どうやら、清水の舞台のような懸造りの天守だったようです。天守台の岩盤に掘られた筋のように溝は、雨水を流す排水路でしょう。緻密な仕事ぶりに感激するばかりです。
武器蔵前あたりから見上げる天守台。懸造りの天守が建っていた
苗木城の絶景が望める理由
もうひとつの魅力が、最高所の天守展望台からの景色です。袂にはエメラルドグリーンに輝く木曽川が悠々と流れます。借景となるのは名峰・恵那山。眺めているだけで雑念が払われます。城を望む景色もすばらしく、とくに玉蔵橋や城山大橋から見上げる城の姿は最高です。
城から眺望が抜群によいのは、苗木城が信濃と美濃の国境付近にあり、中山道と飛騨街道を一望できる場所にあるからです。築城した苗木遠山家は、16世紀中頃までは苗木城から北へ9kmほどの広恵寺城を居城としていましたが、応仁の乱以降は信濃からの侵攻に備える必要性が生じ、木曽と飛騨方面の入り口を押さえる苗木城へ移ったとみられます。
そんな立地ゆえ、苗木城主は戦乱の世の中で翻弄された歴史があります。築城者とされる遠山直廉は、武田氏と織田氏の板挟みになりながらうまく両属状態を維持。しかし直廉が没すると苗木城は織田信長に制圧され、武田勝頼の侵攻を受けました。やがて武田氏が滅亡し信長も横死すると、豊臣秀吉配下の森長可に攻略され、城主の遠山友忠は徳川家康のもとに敗走したのでした。
しかし、関ヶ原合戦の功績によって遠山友政が見事に苗木城主へと返り咲きました。以後は、明治維新まで約270年間を遠山家が統治しています。苗木城は家康から1万521石を拝領した友政により現在の姿へと整備されたようで、石垣のほとんどは友政によるものと思われます。
天守展望台からの眺望。木曽川の流れに心洗われる
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執筆・写真/萩原さちこ
城郭ライター、編集者。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演など行う。著書に「わくわく城めぐり」(山と渓谷社)、「お城へ行こう!」(岩波書店)、「日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)、「戦う城の科学」(SBクリエイティブ)、「江戸城の全貌」(さくら舎)、「城の科学〜個性豊かな天守の「超」技術〜」(講談社)、「地形と立地から読み解く戦国の城」(マイナビ出版)、「続日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)など。ほか、新聞や雑誌、WEBサイトでの連載多数。公益財団法人日本城郭協会理事兼学術委員会学術委員。