超入門! お城セミナー 第59回【武将】軍神・上杉謙信が10年かけても落とせなかったお城って?

お城に関する素朴な疑問を、初心者向けにわかりやすく解説する連載「超入門! お城セミナー」。今回は、戦の天才といわれ、「越後の虎」や「軍神」の異名をもつ上杉謙信の攻撃を、なんと約10年にわたってしのぎ続けたお城を紹介します。上杉謙信を退けた関東一の山城・唐沢山城とは、いったいどのようなお城だったのでしょうか。

唐沢山城、関東七名城
唐沢山城は、下野国の国人・佐野氏の居城。その堅牢さから、河越城や忍城(いずれも埼玉県)などと共に「関東七名城」に数えられている

上杉謙信が落とせなかった堅城、唐沢山城

戦の天才といわれ、「越後の虎」や「軍神」の異名をもつほどのビッグネーム、上杉謙信。その上杉謙信が、なんと10年かけて何度攻めても落とせなかった城があるのをご存知でしょうか? その城は、栃木県にある唐沢山城(からさわやまじょう)です。一体どんな城? 城主は誰?上杉謙信はなぜ落とせなかったの? ……色々気になりますよね。ということで今回は、関東の山城・唐沢山城と、この城を上杉謙信が攻め続けた10年戦争・唐沢山城の戦い(1560年または1561年〜1570年)についてのお話です。

唐沢山城、上杉謙信
上杉謙信は生涯に70を超える合戦を経験しており、そのほとんどに勝利している。しかし、唐沢山城をはじめとする関東での戦いでは、地勢的な制約から苦戦を強いられることが多かった

栃木県佐野市の市街地から北へ約5kmにそびえるのが、標高241mの唐沢山。この山頂を中心として築かれたのが、関東七名城のひとつ・唐沢山城です。土造りが主流だった関東地方には珍しく、高石垣が多用された連郭式の山城。山上まで車でアクセスできるため訪れる人も多く、神社がある本丸跡を中心に野面積の石垣が、今でも城を守っています。

唐沢山城、本丸、石垣
唐沢山城は、本丸をはじめとする主要部を石垣で守っている。この石垣は昌綱時代ではなく、豊臣秀吉配下時代に改修されたものである可能性が高い

この城が守りが強固な「堅城」と言われるは、なんといっても「上杉謙信が10年かけても落とせなかった」という史実によります。この時の城主は、下野国(栃木県)の豪族・佐野昌綱(さのまさつな)。城の堅固さもさることながら、武勇も才覚もあった佐野昌綱の戦い方が、「軍神」上杉謙信から城を守り抜いたのです。

では、そもそも越後国(新潟県の本州部分)を本拠地とした上杉謙信は、なぜ10年もの期間、下野国の山城をそれほど執拗に攻めたのでしょうか? 越後国守護のもとで守護代を務めた長尾家に生まれた謙信(たびたび名が変わるため、ここからは「謙信」で統一します)ですが、唐沢山城の戦いの頃は、本拠地・春日山城(新潟県)の城主であり、主筋だった山内上杉家(関東に割拠した上杉家のひとつ)の当主、そして室町幕府が関東を治めるために設置した役職のひとつである「関東管領」を兼ねていました。実は、管轄違いの越後の大名が、「関東管領」を兼ねるのは異例中の異例。これには、戦国時代らしいワケがありました。

戦国大名たちがしのぎを削り、まさに群雄割拠だった東日本。天文21年(1552)、北条氏康(ほうじょううじやす)に敗北した「関東管領」の上杉憲政(うえすぎのりまさ)を、謙信が春日山城で保護します。その北条氏康が今川・武田・北条の三国同盟を結んで上野(群馬県)に進出。これは、謙信にとっても脅威となります。やがて異例ながら、上杉憲政の養子となり「山内上杉家の家督」と「関東管領の職」を譲り受けることになったのです。上杉憲政にとっては、北条と渡り合う実力がある謙信を養子にすることには利があり、また謙信にとっては、関東管領上杉家の名は越後の支配を固めるために利があったのでしょう。

そして北条と敵対する関東諸将の要請もあって永禄(えいろく)3年(1560)、謙信は関東方面に出兵します。以降ほぼ毎年、沼田城(群馬県)を拠点として年中行事のように出兵しては北条氏康と戦いました。今回ご紹介する「唐沢山城」は、越後から南関東に向かう道筋の、下野・上野・武蔵の国境近くにあった、関東一ともいわれる非常に堅固な山城です。謙信は、なんとかこの要衝を抑えておきたかったのでしょう。

唐沢山城の戦い:情勢を見極め、家名をつないだ佐野氏

では、唐沢山城の戦いの経緯を見ていきましょう。

1560年の謙信初の関東出兵時、佐野昌綱は北関東の諸将とともに謙信の傘下となります。唐沢山城が北条軍に包囲され援軍の要請を受けると、謙信は佐野昌綱を救援に向かいます。決死の適中突破作戦で城に入って佐野昌綱との合流に成功すると、北条軍は撤退。謙信は追撃して永禄4年(1561)3月に本拠地の小田原城(神奈川県)を包囲しますが、攻めきれず退却します。これに乗じて北条軍はまた唐沢山城を包囲します。ところが謙信はこの時期、武田信玄との攻防の最中でした。一騎打ちで有名な第4回川中島の戦いはこの年なのです。このため佐野昌綱に再度の援軍を送る余裕がなく、北条の圧力に耐えかねた佐野昌綱は、北条側に寝返ってしまいます。

なんとかこの要衝を取り返したい謙信は、12月に佐野昌綱の守る唐沢山城を包囲します。これが謙信・佐野昌綱の最初の戦いになりますが、冬が来たため謙信は撤退し、佐野昌綱の勝利となります。越後から唐沢山城に至るには、越後・上野・信濃の境である三国峠を越えねばなりません。上杉軍は帰り道が雪で閉ざされる前に退却せざるを得なかったのです。

三国峠
越後と関東を結ぶ三国峠。冬になると積雪で道が閉ざされてしまうため、謙信は冬になる前に越後に戻る必要があった

以降、謙信・佐野昌綱の唐沢山城をめぐる戦いは元亀(げんき)元年(1570)まで続きますが、結果は3勝4敗で謙信の負け越し。謙信が負ける時は、冬の到来や兵糧の不安で攻めきれずに撤退する時。勝つ時は、北条の援軍が期待できないなど、佐野昌綱が情勢を判断してサッサと降伏した時です。謙信は「よし、これで佐野家は上杉の傘下だ。しっかりこの唐沢山城を守ってくれ!」となるのですが、謙信が越後へ帰って行くと、佐野昌綱はまた機を見て寝返る。そしてまたまた謙信に攻められる…といったパターンが繰り返されました。

「義の武将・謙信に対して、佐野昌綱って信じられないほど卑怯!」と、現代では炎上ものですが、実は戦国時代ではこれが普通。武士道の美学が浸透するのは江戸時代になってからで、勝ち目がなければあっさり降伏することが多かったのです。

最後の戦いでまた攻めきれずに撤退した謙信は、さすがに懲りてしまったのか、北条と同盟を結んで関東攻めを終わりにします。佐野昌綱の方も結局は北条と手を組んでいましたが、のちに豊臣秀吉の小田原攻めがはじまると、当然ながら豊臣秀吉に降伏! こうして佐野氏は江戸時代に「佐野藩」ができるまで生き残ったのですから、いやはや、見事なものではないですか。

関東平野
唐沢山城からは関東平野が一望できる。しかし、江戸を見下ろす位置にあったため、江戸時代になると幕府から廃城を命じられてしまう

軍神・上杉謙信がどうしても落とせなかった唐沢山城。城と一族と領民を守るため、強者の間を軽やかに行き来した佐野昌綱の才覚にも感心しながら、ぜひ一度ゆっくりと散策してみて下さい。

執筆・写真/かみゆ歴史編集部
ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。かみゆ歴史編集部として著書・制作物多数。


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