2019/04/04
【日本100名城・一乗谷城編】 庭園跡が物語る将軍家が頼った北陸の名門
冬には大雪に悩まされるにもかかわらず、足利将軍家が頼った名家が越前国(福井県)にありました。約450年前の城下町跡が残る一乗谷朝倉氏遺跡(いちじょうだにあさくらしいせき)。織田信長と争った朝倉義景(あさくらよしかげ)の館跡や、一乗谷城の麓に広がる城下町は今も往時の栄華を伝えてくれます。日本屈指の庭園跡など、一乗谷朝倉氏遺跡でしか見学できない貴重な遺構をご紹介します。
一乗谷朝倉氏遺跡を象徴する朝倉義景館跡の唐門
巨石の入口をくぐれば約450年前にタイムスリップ
「下城戸」は高さ4m、長さ38mの土塁と、巨石を組み合わせた通路跡
一乗谷城(福井県福井市)は、一乗谷朝倉氏遺跡にそびえる山城跡です。一乗谷朝倉氏遺跡の入口は、北端の谷幅が最も狭くなったところに造られた「下城戸(しもきど)」。外側から城下町が見えないようにクランク状の「枡形造り」の構造が特徴です。重さ45トン以上もの巨大石を用いたうえに、長さ50m、高さ5mもの厳重な構えをしていたと推定されています。下城戸から約1.7km先にはもう一つの入口、上城戸が設けられており、下城戸と上城戸で囲まれた範囲に城下町が存在していたのです。
下城戸から一乗谷朝倉氏遺跡内部に入ると広場のような空間になっており、その広場の南側に町屋地区が形成されています。瓢町(ふくべまち)地区には、共用とみられる井戸があり、商人などの町屋が並んでいたことがうかがえます。
往時は武家屋敷、町屋、社寺等が密集して町を形成し、1万人もの人々が生活していた
城下町一乗谷を整備したのは、足利将軍が頼った朝倉氏
一乗谷朝倉氏遺跡に立つ朝倉義景の墓
戦国時代を代表する一乗谷の町を造ったのは朝倉氏。但馬国(兵庫県北部)東部の朝倉谷に生まれ、初めて越前へ入国した朝倉広景(あさくらひろかげ)を祖とし、朝倉義景まで11代にわたって続いた大名家です。越前国(福井県東部)は京都から比較的近く、北陸地方や山陰地方に至る交通路の要衝。この重要な土地を治めていた朝倉氏は、足利将軍家とも親密な関係を築きました。
13代将軍・足利義輝(あしかがよしてる)が永禄8年(1565)に三好氏らによって殺害される事件が起きると、足利義輝の弟である覚慶(かくけい)は、朝倉義景の援助のもと近江国(滋賀県)へと逃れました。覚慶は朝倉家を頼って越前に3年にわたって逗留。朝倉義景は覚慶を親身になって後見し、元服の儀(成人になったことを示すために行われる儀式)まで行うほどでした。
その後、覚慶は織田信長を頼って上洛を実現し、15代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)となりました。織田信長から上洛し服従することを命じられましたが、朝倉義景は拒否。本願寺や延暦寺など宗教勢力らと連合して織田信長に対抗しました。朝倉義景と織田信長は、元亀元年(1570)より4年にわたって本格的な戦いを行いました。勝敗が決定的になったのが元亀4年(1573)、小谷城に籠る浅井氏の救援に駆けつけたものの大敗を喫します。
朝倉義景は一乗谷に帰陣し、いとこの朝倉景鏡(かげあきら)のすすめで大野郡(福井県東部)へと移動。織田信長軍によって一乗谷は放火、破壊され、朝倉義景もついに自刃へと追い込まれてしまいます。
朝倉氏の栄華を伝える朝倉義景館跡
朝倉義景館跡の背後にそびえる山が一乗谷城跡
広い一乗谷の中でも一番のみどころは朝倉義景館跡です。山城(一乗谷城跡)を背にして三方向に堀と土塁をめぐらす構造。館の正面に位置する西門には、一乗谷朝倉氏遺跡を代表する存在である唐門が立ちます。朝倉義景の菩提を弔うために江戸時代に建てられたと推定されています。西門をくぐり土塁の内側には、10数棟の建物が整然と立ち並び、機能別に大きく2つに分けられます。
一望した朝倉義景館跡。広大な屋敷跡の遺構が残る
一つは主殿を中心にし、接客の機能をもち、特別名勝のひとつである朝倉館庭園や数寄屋の跡がみられます。主殿では、15代将軍・足利義昭が一乗谷を訪れた際、豪華な宴が催されたと記録があります。もう一つは、常御殿(つねごてん)を中心とする日常生活の場で、台所や湯殿、厩(うまや)などの跡がみられます。茶器や花器などの中国製陶磁器が出土しており、朝倉氏の栄華と一乗谷で育まれた華やかな文化をうかがい知ることができます。
日本屈指の4つの庭園遺構
諏訪館跡庭園は最大規模の大きさ
織田信長に破壊されてしまったものの、朝倉氏の文化水準の高さを示す遺構として、室町時代末期の様式をよく伝え、特別名勝に指定されている4つの庭園が残ります。そのうちの一つ「朝倉館跡庭園」は完全に埋没していたもので、発掘調査により約450年ぶりに発見されました。
「諏訪館跡(すわやかたあと)庭園」は、朝倉義景が最愛の妻・小少将(こしょうしょう)のために造ったと伝えられ、低く丸みを帯びた石が多く、女性らしい雰囲気が感じられます。朝倉館跡を見下ろす高台にある「湯殿跡(ゆどのあと)庭園」は、立石群が林立する荒々しく勇壮な石組みが特徴で、戦国武将の気風が漂っています。「南陽寺跡庭園」は、15代将軍・足利義昭をもてなし、境内の糸桜を眺めながら、歌会を催したと伝えられています。
豪快な石組みが特徴の湯殿跡庭園
遺跡内には、15カ所以上の発掘された庭園が確認されています。これほどの数の庭園が確認されている遺跡は、全国的にみても、この一乗谷朝倉氏遺跡だけです。さまざまな種類の庭園が盛んに造られたことがうかがえます。
一緒にめぐりたい福井城と越前大野城
JR越美本線に乗ればローカル線の城旅が楽しめる
一乗谷朝倉氏遺跡の最寄り駅「一乗谷」駅へはJR「福井」駅が起点となります。福井駅からは日本100名城の福井城が徒歩圏内。福井駅から一乗谷駅まではJR越美北線を使って約20分。ひと足のばして一乗谷駅から40分の「越前大野」駅で下車すると、越前大野城(続日本100名城)を中心とした城下町にアクセスできます。城下町に1泊すれば、翌朝は雲海がかかった越前大野城に出合えるかもしれません。越前大野の城下町では、一乗谷から大野郡へと逃れた朝倉義景のお墓もお見逃しなく。
「天空の城」とも呼ばれる越前大野城
JR越美北線を利用して、朝倉義景に思いを馳せてみる城旅はいかがでしょうか。
住所:福井県福井市城戸ノ内町
電話番号:0776-41-2330(社団法人 朝倉氏遺跡保存協会)
入城時間:入城自由
入城料:無料
アクセス:JR越美北線「一乗谷」駅から徒歩約30分。またはJR北陸本線「福井」駅から京福バス東郷線で約30分「武家屋敷前」停留所下車すぐ
執筆・写真/藪内成基(やぶうちしげき)
奈良県出身。国内・海外で年間100以上の城を訪ね、「城と旅」をテーマに執筆・撮影。異業種とコラボした城を楽しむ体験プログラムを実施。旅行雑誌『ノジュール』(JTBパブリッシング)などを編集。
※歴史的事実や城郭情報などは、各市町村など、自治体や城郭が発信している情報(パンフレット、自治体のWEBサイト等)を参考にしています