2019/03/08
理文先生のお城がっこう 城歩き編 第11回 曲輪の役割を考えよう
加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の城歩き編。今回は、「曲輪(くるわ)の役割を考えよう」がテーマです。曲輪とは何なのか、どうして曲輪と呼ばれているのか、またどのような役割をもって配置されていたものなのでしょうか。理文先生といっしょに見ていきましょう。
■理文先生のお城がっこう
前回「城歩き編 第10回 縄張りの形」はこちら
曲輪(くるわ)とは、城(しろ)の中に造(つく)られた一つの区画のことです。郭・廓という漢字で書かれたりもします。近世(きんせい)になると、曲輪とは呼(よ)ばずに、本丸・二の丸というように丸(まる)が使われるようになりますが、これも意味は同じです。江戸軍学(兵の動かし方・戦いに勝つための具体的な方法など、戦いの方法に関する学問のこと)では、「円(まる)い形だから曲輪と呼び、何々丸と名前を付ける」とされ、さらに「曲輪は丸く造(つく)るのが良くて、円形は面積が広いわりに外周りが短いので、守るには有利だ」と教えていました。こうした曲輪は、どう呼ばれ、どのような役割(やくわり)をもって配置されていたのかを考えてみましょう。
曲輪の名前
曲輪の呼び方は、一つひとつの平(たい)らな面のことを示(しめ)すことが多いのですが、小さな曲輪をまとめて「○○曲輪(郭)」と呼ぶ場合もありました。曲輪の位置(いち)を割り当てる方法はいろいろありましたが、地形(ちけい)によって制約(せいやく)を受けることが多く見られます。一般的には、本丸(本曲輪)を中心に置いて、大手(正面)方面に向けて守備力(しゅびりょく)を固めるような配置にしていました。各曲輪の呼び方や名前は、曲輪の使い方、目的、位置などによって付けられていました。基本的に本丸に近いほうから二の丸・三の丸・出丸(でまる)などと呼んだり、方角から西の丸・北の丸という呼び方もされたりしています。
寛永期(かんえいき)の江戸城(えどじょう)全体図(イラスト:香川元太郎)
内郭と外郭
一つの城の中心曲輪になる本丸と、本丸だけでは不十分な部分を補(おぎな)うための曲輪を併(あわ)せ、城の中心的な役割を果たす部分を内郭(ないかく)(内曲輪(うちくるわ))と呼びます。簡単(かんたん)に言うなら、堀(ほり)や石垣(いしがき)、土塁(どるい)で区画された城の戦闘的(せんとうてき)な部分のことです。
近世の城で、城下町(じょうかまち)も含(ふく)めて大きく堀や石垣、土塁で囲い込んだ惣構(そうがまえ)を持つものがありました。その場合、居住(きょじゅう)する目的だけの城下部分のことを外郭(がいかく)(外曲輪(そとくるわ))と呼びますが、城の中で最も外側(そとがわ)にある曲輪の呼び方としても用いられています。外郭の中を、武士(ぶし)が住む場所と町人が住む場所に区別して、その間に堀や土塁を造って区画した場合は、内側に設(もう)けられた武士が住む曲輪のことを中曲輪(なかくるわ)と呼ぶこともありました。
曲輪の配置と役割
城の中心としての役割を持っていた本丸・二の丸・三の丸という曲輪に、くっついて役割を果たすいろんな曲輪があります。
天守曲輪(丸)(てんしゅくるわ(まる))は、大きく見れば本丸の一部と考えることもできますが、一段高くして別の曲輪として独立(どくりつ)させることもありました。当初は、最も高い場所の面積が狭(せま)く御殿(ごてん)を造(つく)ることが出来ないために、天守(てんしゅ)だけを造るという苦しまぎれに考えた手段だったのです。中には、本丸の面積が広いため、あえて天守曲輪を区切って設(もう)けた例もありました。
本丸とは、城の最も重要な場所で、城主(じょうしゅ)の住まいと政治(せいじ)を取り扱(あつか)う働きを併せて持っていました。万が一、戦争になった時には、最終的な防御(ぼうぎょ)の拠点(きょてん)ともなったのです。二の丸は、本丸だけでは不十分(ふじゅうぶん)な部分を補う役割を持つ曲輪で、平和な時代になると政治を行う働(はたら)きが本丸から移されることになりました。三の丸は、家臣(かしん)たちの屋敷(やしき)地として利用されることが多く、二の丸の近くに設けられていました。
(左)和歌山城(わかやまじょう)天守曲輪内部 (右)掛川城(かけがわじょう)天守曲輪を望む
附属(ふぞく)の曲輪群(くるわぐん)
本丸が最後の拠点(きょてん)になる曲輪でしたが、城の近くや後ろに高い山などがあると、そこに籠(こも)って戦うための曲輪を設けることがありました。そうした曲輪がある時は、詰丸(つめのまる)と呼んでいます。詰丸が最終的な防御のための施設(しせつ)なら、敵(てき)に最も近い場所に設けられた曲輪が出丸(郭)でした。城の中心の本丸・二の丸などから外へ張(は)り出したり、あるいは少し離(はな)れた場所に配置されたりすることが多く見られます。
こうした大きな面積を持つ曲輪とちがって、城内(じょうない)に点在(てんざい)する小さな曲輪に帯曲輪(おびくるわ)・腰曲輪(こしくるわ)と呼ばれる曲輪があります。帯曲輪と腰曲輪の二つの曲輪は、本丸などの主要な曲輪の周囲に配置された小さな曲輪で、はっきりとした区別は出来ません。
中世(ちゅうせい)の山城(やましろ)の場合は、山の上の曲輪に対して、山の中腹(ちゅうふく)に取り付いた形の曲輪を、腰の位置にあるため「腰曲輪」と呼んだためとも言われます。ただし、尾根(おね)の一番高い連なりからそれて、側面にある場合は「袖曲輪(そでくるわ)」と呼んで区別することもありました。
また、山の中腹一帯に段々畠(だんだんばたけ)のように重なって設けられたり、鉢巻(はちまき)のように取り巻(ま)くように造(つく)られたりすることもありました。この中で、細長く帯(おび)のように延(の)びると「帯曲輪」と言われますので、やはり細(こま)かいところまで正確(せいかく)な区分は出来ないことになります。近世城郭(きんせいじょうかく)の場合は、通路の上に細長く配置されるケースが多いため、中段に置(お)かれた小さな曲輪は、ほとんど帯曲輪と呼ばれているようです。
堀の内の城山(静岡県浜松市)の腰曲輪
本曲輪(ほんくるわ)と二の曲輪(にのくるわ)の北下に設けられた曲輪で、幅約9m、東西方向に約60m続(つづ)く小曲輪(しょうくるわ)が残されています。位置からすれば「腰曲輪」でしょうが、長さを見れば「帯曲輪」と呼んでもいいかもしれません。このように、両者(りょうしゃ)はしっかりとした区別(くべつ)ができないのです。
大給城(おぎゅうじょう)(愛知県豊田市)の帯曲輪
本丸北下から西下にかけて、帯のように取り巻く曲輪で、東西方向に約50mほど延(の)び、L(エル)字に折れて約25mほど続いています。このように曲輪を取り巻く形になれば「帯曲輪」です。
全体的な曲輪の配置の一つの形として「一城別郭(いちじょうべっかく)」「別郭一城(べっかくいちじょう)」「別城一郭(べつじょういっかく)」と呼ばれる城があります。どれも、同じ意味で言い方が違っているだけです。本来は一つの城になるわけですが、違う丘陵(きゅうりょう)の上を利用しているためとか、川で隔(へだ)てられているためとかの理由で、戦争状態(じょうたい)になった時に、それぞれの曲輪が一つの城のような役割を持って使われるようなケースのことを言います。
遠江(とおとうみ)高天神城(たかてんじんじょう)(イラスト:香川元太郎)
今日ならったお城(しろ)の用語
内郭(ないかく)
内曲輪(うちくるわ)とも呼ばれます。堀や石垣、土塁で区画された城の戦闘的な部分のことです。
外郭(がいかく)
外曲輪(そとくるわ)とも呼ばれます。城下町も含めて大きく堀や石垣、土塁で囲い込んだ惣構(そうがまえ)を持つ城で、居住を目的にした城下部分のことです。
惣構(そうがまえ)
城だけでなく、城下町まで含めた全体を堀や土塁などで囲い込んだ内部、または一番外側に設けられた城を守るための施設のことです。「総構」と書くこともあります。
天守曲輪(てんしゅくるわ)
大きく見れば本丸の一部と考えることもできますが、天守の築(きず)かれた場所を一段高くして別の曲輪として独立させたようなケースを言います。
詰丸(つめのまる)
城内の最も奥(おく)にあって、最後に籠って戦うための曲輪のことです。本丸より奥の高い場所に、適した曲輪を設けた場合に付けられた呼び方です。
出丸(でまる)
城の中心的な曲輪から離(はな)れて造られた曲輪のことです。敵方(てきかた)の最前線(さいぜんせん)で攻撃(こうげき)をしたり防(ふせ)いだりする役目がありました。出郭(でくるわ)とも言います。
一城別郭(いちじょうべっかく)
本来は一つの城になるわけですが、違う丘陵の上を利用しているためとか、川で隔てられているためとかの理由で、戦争状態になった時に、それぞれの曲輪が一つの城のような役割を持って使われる城をいいます。「別郭一城(べっかくいちじょう)」・「別城一郭(べつじょういっかく)」とも言います。
城歩き編 次回は「普請とはなんだろう」です。
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加藤理文(かとうまさふみ)先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。