2021/07/16
日本100名城・続日本100名城のお城 【日本100名城・鹿児島城】西郷隆盛の魂が眠る城!薩摩独自の城の視点が面白い
2018年放送のNHK大河ドラマ「西郷どん」の舞台として注目を集めた鹿児島県! 江戸時代に、薩摩藩は現在の鹿児島県と宮崎県の一部を領有していました。その本拠地は、日本100名城にも選定されている「鹿児島城」。薩摩藩の城造りは、他藩に類を見ない独特な考え方をもっていました。藩主の暮らした鹿児島城の見どころや、西南戦争終結の地・城山。そして、2015年に世界文化遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産」など、鹿児島城と一緒に訪れたいスポットもご紹介します!(※2019年2月26日初回公開)
鎌倉以来の武家の伝統を受け継ぐ城
鶴が羽を広げた形に似ていることから「鶴丸城」という別名をもつ。写真は「御楼門」復元前。
慶長6年(1601)頃に築城を開始した薩摩藩の本拠地・鹿児島城は、山の麓に築かれた城。政庁としての役割と藩主の居住空間が同居する、館造りの平城でした。
2020年4月には、明治維新150周年記念事業の一環として、明治6年(1873)の火災により焼失してしまった正門「御楼門」が復元され、一般公開されています。古写真によると、楼門は入口正面の横の位置に番所が突き出した珍しい形式で、壁は海鼠壁(なまこかべ)だったようです。門の中に入ると右に折れ、さらに左に折れる堅固な造りの出入口でした。石垣には、今でも西南戦争の生々しい弾痕が確認できます!
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現在、本丸には鹿児島県歴史資料センター黎明館(れいめいかん)が。二の丸には県立図書館や市立美術館、県立博物館が建っている
城の大きさは南北750m、東西200m。本丸と二の丸の2つの区画に分かれ、三方が石垣と水堀に囲まれていました。かつては、本丸の南東部と北東部に海鼠壁を施した多聞櫓があり、現在は、南東部の多聞櫓の礎石部分が公開展示されています(工事中は、見られない部分もあります)。
鹿児島城は、文久3年(1863)の薩英戦争で砲撃を受け、明治6年(1873)の火災で本丸が焼失。さらには、明治10年(1877)の西南戦争で二の丸も炎上するなど、幕末から明治期にかけて大きな被害を受けました。当時の城の建物遺構は残っていませんが、立派な石垣と水堀が見どころです!
石垣の隅部が欠けている
また、本丸の北東部にある鬼門除けの「隅欠(すみおとし)」も、鹿児島城の特徴の一つ。これは、鬼が出入りする北東の方位が忌み嫌われ、災厄を取り除こうと、わざと城の北東の石垣の角部を直角に欠けさせたものです! ちなみに、隅欠は鹿児島以外の地域の城でも確認されていますが、それほど多くは見られません。
築城時72万石の大名であった鹿児島城は、天守もなければ重層の櫓もない、一見 “華やかさ” に欠けた城と感じてしまいますが……それには、薩摩独自の城造りの思想が!
慶長20・元和元年(1615)に幕府によって定められた「一国一城令」では、原則、1つの国(大名の領国、藩のこと)に対して一城のみというルールが定められました。拠点となる城の周りにいくつかの支城を置き、各城が連携して統治する……それまでの体制を解体したのです。
この一国一城令で鹿児島城のみとなった薩摩藩では、独自の統治スタイルを生み出しました。「外城制(とじょうせい)」と呼ばれる考え方は、廃止となった城下の家臣を「城」ではなく「麓(ふもと)」と称された武家集落にそのまま住まわせ、軍事組織を残したのです。支配拠点を110余の麓(外城)に分けて防衛・領国支配を行いました。
むろん徳川幕府への配慮もあったでしょうが、「城をもって守りと成さず、人をもって城と成す」という薩摩独自の城造り思想が、天守も櫓も必要ない鹿児島城を誕生させたのかもしれませんね!
私学校の石塀に残る、彼らがいた証
鹿児島城に隣接する私学校跡。昭和43年(1968)に鹿児島県記念物(史跡)へ指定された
石塀についた弾痕跡からは、激しい銃撃戦が想像される
明治6年(1873)征韓論に敗れた西郷隆盛は、鹿児島城に帰郷後、城の旧厩跡に私学校を設立しました。桐野利秋(きりのとしあき)など西郷隆盛を慕う青年達と共に設立した私学校は、明治9年(1876)には全ての郷内に設置されるまでになり、新しい時代に適応する人材を育成する機関として期待を受けます。また、この私学校の設立は、明治政府へ不満をもつ若者の熱を冷ます存在でもあったのです。
しかし、西郷軍と政府軍が戦った「西南戦争」がおき、鹿児島城は戦の舞台となりました。石塀には、その時の銃撃戦で受けた銃弾の跡が残っているので、見に行ってみましょう!
西南戦争の終結地「城山」はマストスポット!
館のすぐ後ろにある城山遊歩道を2,30分ほど登ると城山公園展望台に到着する
南北朝時代に上山氏が築城した山城。中世上山城には土塁や空堀の痕跡がみられる
山麓に位置する鹿児島城の背には、標高107mに位置する中世の山城「上山城」がありました。一国一城令で上山城としての中世山城が終わりを迎えましたが、鹿児島城が麓にできてからは、籠城時に避難する後詰めの役割を担います。西南戦争の最後の決戦の地として知られる「城山」とはココのことです。
「西郷洞窟」と呼ばれる隠れ場は、数人しか入ることができないほど狭い
城山の中腹には、西郷隆盛が1か月間立て籠っていたという洞窟があります。西郷軍が城山に立て籠る中、明治10年(1877)9月24日政府軍は城山総攻撃を開始。銃弾を受けた西郷は、城山を下った場所で別府晋介(べっぷしんすけ)の介錯によって、最期の時を迎えたそうです。
城山公園展望台は、鹿児島市街地をはじめ桜島や錦江湾(きんこうわん)を望む、鹿児島屈指の眺望スポット!
城山は姶良(あいら)カルデラの外輪山の一部にあたり、火山噴出物のシラスからできています。展望台からは桜島と城下が一同に望め、鹿児島観光では絶対に訪れておきたいスポットです! ちなみに、オススメの訪問時刻は夕方。夕陽を正面から浴びて赤く染まる桜島は、つい見とれてしまうほどの美しさです。
最期にふるさとの景色を見ることができて、西郷隆盛もホッとしたのではないでしょうか。
ちょっと足を伸ばして、薩摩が生んだ世界遺産を
寺山炭窯跡(左上)、関吉の疎水溝(右上)、旧集成館・反射炉跡(左下)、旧集成館機械工場(右下)
2015年に世界文化遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産」の構成資産は8県11市にわたっており、鹿児島からは旧集成館、寺山炭窯跡、関吉の疎水溝が構成資産になっています。薩摩藩主・島津斉彬公、久光公が手がけた工場群は、製鉄・製鋼、造船といった重工業における産業化を急速に押し上げ、近代化を加速させたのです。
鹿児島城を訪れた際は少し足を延ばして、彼らの成し遂げた大事業をご自身の目や肌で感じてみてください!
西郷どんたちの魂が眠る町
2018年のNHK大河ドラマ「西郷どん」が最終回をむかえてもなお、熱が冷めない鹿児島。
歴史ストーリーを辿る史跡散策を楽しむにはぴったりの観光シティです。 熱い料理とアツイ話題は、冷めないうちにいただくのが鉄則! 鹿児島城や歴史関連スポットを、是非訪れてみてください。
鹿児島城の基本情報
・住所:鹿児島県鹿児島市城山町7番2号
・電話番号:099-222-5100(鹿児島県歴史資料センター黎明館)
鹿児島県歴史資料センター黎明館
・営業時間:9:00〜18:00(入館は17:30まで)
・定休日:月曜(祝日の場合は翌日)、毎月25日(土・日曜の場合は開館)、12/31,1/1,1/2
・入館料:400円
・アクセス:JR鹿児島中央駅またはJR鹿児島駅から市電で約12分、「市役所前」駅下車、徒歩5分。JR鹿児島中央駅から市バスで約10分、「市役所前」バス停下車、徒歩5分、またはカゴシマシティビューで約15分、「薩摩義士碑前」バス停下車すぐ。
執筆/いなもと かおり <お城情報WEBメディア 城びと>
お城マニア&観光ライター
年間120城を巡る城マニア。國學院大學文学部史学科古代史専攻卒。19歳の時に、会津若松城に一目惚れしてから城の虜となる。訪城数は600ほど。国内旅行業務取扱管理者、日本城郭検定1級、温泉ソムリエ、夜景鑑賞士2級の資格をもつ。城めぐりの楽しみ方を伝えるべく、テレビやラジオにも出演中。※2021年9月プロフィール更新