お城の現場より〜発掘・復元最前線 第26回【新府城】わずか68日で灰燼に帰した悲劇の城

城郭の発掘・整備の最新情報をお届けする「お城の現場より〜発掘・復元・整備の最前線」。第26回は、武田氏最後の城・新府城。織田・徳川連合軍が迫る中、武田勝頼は何を想ってこの城を築いたのか。勝頼入城からわずか68日で火を放たれた悲劇の城の発掘調査について、韮崎市教育委員会の閏間俊明さんが紹介。



新府城、出構、丸馬出、枡形
新府城は、出構や丸馬出、枡形を備えた大規模な城で、武田流築城術の集大成ともいわれている

武田氏最後の府中の城「新府城」

武田信玄の息子、勝頼(かつより)が新たな武田領国の中心として築城した新府城では、平成10年(1998)から本格的な調査や整備に着手している。整備では新府城の特徴の1つ「出構(でがまえ)」を中心に城の北部にあたるエリアについて、調査成果をしめした解説板などの整備を行われた。ここ数年は、武田氏の築城した城の特徴ともいわれる「丸馬出」およびその周辺の発掘調査を実施している。

新府城跡は、西側が八ヶ岳からのびる七里岩台地の崖に接し、天然の要害となっている。北からは東に堀がめぐらされていた。南側は、北側のような明確な堀は確認されていないが、自然地形で沢が入り込み、城郭と緩やかな境界となっている。

新府城跡の北西隅の枡形虎口のうち、城内側の乾門二之門では、発掘調査で6個の礎石、焼けた木材や釘などが検出された。現地では、修復した土塁や検出した礎石の復元を見ることができるとともに、解説板で調査成果から想定した門の復元案を掲示している。

乾門、枡形虎口、新府城
乾門の枡形虎口の様子

新府城、炭化材
乾門から検出された炭化材は、新府城が放棄された際の自焼によるものと考えられる

大手口方面の現況

大手口には丸馬出が設けられており、その前面には三日月堀がめぐらされている。発掘調査では、この三日月堀の底面は箱堀と呼ばれる平らな形状をしていたことが確認された。深さは現状から50cm程度で、思ったよりも浅く感じられるが、丸馬出に向かう斜面の高さを考えてみると、十分に堅牢な城であるというインパクトは絶大である。

三日月堀、新府城
整備された三日月堀。下草が刈られたことで堀の形状が明瞭になった

丸馬出の左右には大きさの異なる枡形虎口が付属し、丸馬出内の出入りを堅牢なものとした縄張となっている。建物の痕跡を発掘調査で確認はできていないが、現地を歩き縄張を体感すると、丸馬出、そして城内へと続く大手枡形虎口が極めて重要な施設として普請されていたことを感じられるだろう。

丸馬出、曲輪、土塁
枡形から撮影した丸馬出。曲輪や土塁の形状が良好に確認できる

丸馬出で強固に守られた大手枡形虎口について、門の想定される位置や土塁上の平坦面の調査を実施したが、建物跡を示すような痕跡は把握できなかった。「甲陽軍鑑(こうようぐんかん)」などで新府城が半造作であったことが記されているが、その裏付けともなり得るかもしれない。本丸などの調査結果から、お館様である武田勝頼が在城したことは間違いないが、勝頼が新府城に入城した際に、どのようなルートで本丸まで登城したのか今もって未解明である。

新府城内には、大きな井戸跡が2つ存在する。1つは、北側の帯曲輪にあり、井戸の水源は北から新府城に向かう沢となっていて、城外からの水を利用していたことになる。もう1つは、乾門から二の丸に向かう斜面を利用してつくられたもの。新府城は山を切り盛りして普請されているが、この井戸は山からの水を集水できるような位置にあり、城内からの水を利用していたことになる。城内・外からの水を巧みに取り入れた井戸で、水の管理を行おうとしたのだろう。

新府城、井戸遺構
整備直後の井戸遺構

真田昌幸、信伊、隠岐殿遺跡
真田昌幸の弟・信伊(のぶただ/隠岐守)と同じ名前の隠岐殿遺跡の屋敷跡から出土した遺物


新府城(しんぷ・じょう/山梨県韮崎市)
新府城は、武田勝頼が天正9年(1581)2月頃から築城をはじめ、同年12月に躑躅ヶ崎館(史跡武田氏館跡・山梨県甲府市)から移り住んだ城。翌年の3月には、織田氏・徳川氏が包囲網を狭める中で、勝頼は岩殿城(山梨県大月市)を目指し、新府城に火をかけ廃城になったと伝わる。武田氏滅亡後は、徳川氏が天正壬午の乱で陣城として利用したと記録されている。勝頼の在城はわずか3か月足らずだったが、近年、周辺で新府城と同時期の屋敷跡の遺跡(隠岐殿遺跡)が発掘された。新たな府中の地としての初めの頃の様子が本城を含め周辺に埋もれていると思われる。

執筆/閏間俊明(韮崎市教育委員会)

写真提供/韮崎市教育委員会


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