萩原さちこの城さんぽ 〜日本100名城・続日本100名城編〜 第15回 洲本城 水軍の将が築いた、「登り石垣」が残る絶景の城

城郭ライターの萩原さちこさんが、日本100名城と続日本100名城から毎回1城を取り上げ、散策を楽しくするワンポイントをお届け! 今回は、15回目。兵庫県洲本市にある「登り石垣」が残る絶景の城、洲本城をご紹介します。

籾倉、洲本城、天守
籾倉から西の丸への道のりから見た洲本城の天守。洲本城は、山頂北側の本丸を南の丸が囲み、東には東の丸、東下段に武者溜、南下段に馬屋を置く構造。南の丸の西側には籾蔵、そこから約200メートル先に独立した西の丸がある

「洲本八景」も望める水軍の城

洲本城は、瀬戸内海最大の島・淡路島の中部西から南東に位置する洲本市の東端、標高約133メートルの三熊山にあります。三熊山は瀬戸内海国立公園に属し、紀淡海峡(紀州と淡路島間の海峡)を一望できる景勝地。青く美しい大阪湾に面し爽やかな風が吹くこの場所には、穏やかな時間が流れるばかり。しかし戦国時代から江戸時代にかけては、淡路の拠点がありました。

洲本城のはじまりは16世紀初頭で、由良城を本拠地とした三好氏の重臣・安宅氏が築いた支城のひとつと考えられます。1581年(天正9)に、織田信長配下の羽柴秀吉の侵攻を受け開城。本能寺の変を経て、秀吉配下の仙石秀久が淡路島の諸城を支配すると、四国攻めに備えた水軍城として石垣づくりの城へと整備されました。1585年(天正13)に秀久に代わり城主となった脇坂安治がさらに城を改修し、水軍の編成も強化。城内に残る石垣の大半は、安治時代に積まれたものと思われます。

東の丸の東面に積まれた高く長い石垣は海への備えと考えられ、最前線として南の谷まで蜿蜿と続きます。大手が南に向くのは、紀淡海峡や大阪湾の海上を睨み、いざとなれば海峡を通って諸国に討って出る構えだからでしょう。南側の馬屋郭からは、今も紀淡海峡が見下ろせます。右は明治政府が堡塁砲台を築いた由良、左は友ヶ島。ここに立てば、洲本城が水軍基地として機能していたことが連想できるはずです。

東の丸二段の郭、石垣
城内最古級の、東の丸二段の郭の石垣。天正期の石垣とみられる

全国的にも希少な石垣と、必見の「登り石垣」

仙石秀久や脇坂安治によって築かれた、全国的にも希少な天正期、文禄・慶長初期の石垣がたくさん残ります。この時期は石垣築造技術の発達期にあり、その過程も見られます。たとえば、東の丸二段の郭の石垣は古く、天正期に積まれたとみられるもの。南東隅角部は算木積みが未発達で、勾配は直線的で反りもありません。それに対して、慶長期に積まれた天守台南西隅部は石材が均一化され、隅角部の稜線が通っています。注意して見比べて見ると、違いは一目瞭然。算木積みの発達によって石垣に高さも出てきます。

この中間となるのが、南の丸の南東隅角部や東の丸東面などの、文禄・慶長初期の石垣です。算木積みは発展途上にあるもののまだ完成とはいえず、高さもやや高くなりはじめた程度。隅角が90度以上の鈍角なもの(シノギ角)があるのも、この時期の石垣の特徴です。

最大の見どころは、北斜面に脇坂安治によって築かれたとされる、2つの登り石垣です。山頂から山麓に向けて、蜿蜿と続きます。文禄・慶長の役で苦戦を強いられた安治は、帰国すると大坂城を防衛する城として洲本城の強化を図ったとみられます。登り石垣も、そのひとつなのでしょう。南の丸、東二の門、日月の池も、このときの改修と思われます。

西登り石垣、三熊山、登山道
西登り石垣。三熊山登山道からも、一部見ることができる


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執筆・写真/萩原さちこ
城郭ライター、編集者。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演など行う。著書に「わくわく城めぐり」(山と渓谷社)、「お城へ行こう!」(岩波書店)、「日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)、「戦う城の科学」(SBクリエイティブ)、「江戸城の全貌」(さくら舎)、「城の科学〜個性豊かな天守の「超」技術〜」(講談社)、「地形と立地から読み解く戦国の城」(マイナビ出版)、「続日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)など。ほか、新聞や雑誌、WEBサイトでの連載多数。公益財団法人日本城郭協会理事兼学術委員会学術委員。

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