2019/01/31
日本100名城・続日本100名城のお城 【続日本100名城・高天神城編】 武田信玄・勝頼親子と徳川家康が争った激戦地
「高天神を制するものは遠州を制す」とも称された高天神城は、遠江(静岡県西部)を代表する中世の山城。武田信玄・勝頼親子や徳川家康によって高天神城をめぐって数々の攻防が繰り広げられました。激戦地ならではの進化を遂げた「一城別郭(いちじょうべっかく)」の構造などを味わってみませんか? 今回は、三武将の攻防を中心に高天神城のみどころをご紹介します。
高天神城をめぐる戦いで徳川方の武将・大河内源三郎が8年間幽閉された石窟
武田信玄が攻略を諦めた堅城、高天神城
高天神城は鶴が羽を広げたような鶴翁山に築かれ、別名「鶴舞城」(がくぶじょう)とよばれた
三方が崖に囲まれた標高約130mの鶴翁山(かくおうざん)に高天神城は築かれました。東峰と西峰二つの尾根が鳥の翼のように延びる要害の地。二つの曲輪(くるわ)が補完し合って一つの城として機能する「一城別郭」と呼ばれる構造をもちます。築城者ははっきりしないものの、室町時代に今川氏が遠江(静岡県西部)侵攻の拠点として築いたとされます。戦国時代には、武田信玄や徳川家康を巻き込んだ激戦地となりました。
武田信玄は追手門を攻撃するものの、本格的な攻城はおこなわなかった
永禄3年(1560)に桶狭間の戦いで今川氏が衰退した後は、徳川家康の勢力下となりました。元亀2年(1571)、武田信玄が京への上洛を目指す途中、2万5000騎を率いて攻めます。武田信玄は攻めかかるものの攻略が難しいと判断し、包囲を解いて退却。結局、大きな戦いは行われませんでした。当時の武田信玄は、戦国大名屈指の戦力を保有していたにも関わらず、高天神城を無理には攻めなかったのです。
武田勝頼が攻略し弱点の西峰を強化する
武田勝頼は本丸を攻略した後、西峰を強化する
天正2年(1574)には、武田信玄の四男であり、武田家を継いだ武田勝頼が2万騎で攻めます。迎える徳川家康は、織田信長に援軍を要請するものの、石山本願寺と長島一向一揆との対決の最中で、織田信長は動きが取れない状況。そのため、徳川家康は武田勝頼との戦いを避けるしかありませんでした。約1カ月におよぶ籠城戦の末、城主・小笠原長忠(おがさわらながただ)は降伏。武田勝頼は父・武田信玄が攻めるのを避けた高天神城を手に入れたのです。
西の丸跡に立つ高天神社。かつては本丸に祀られており、現在の本丸には元天神社がある
難攻不落と思われた高天神城は、西峰(現在の西の丸方面)の守りが弱点であり、武田軍はその弱点を突くことで高天神城を攻略することができました。そのため、武田勝頼は高天神城を手に入れると西峰の守りを強化しました。
周到に準備をした徳川家康が奪回
井戸曲輪に残る「かな井戸」。付近には武田軍が雨乞いの儀式をした三日月井戸も残り、水の大切さを伝える
武田勝頼によって強化され、ますます攻略が難しくなった高天神城。徳川家康が再び攻めることとなります。天正3年(1575)の長篠の戦いで武田勝頼に勝利した徳川家康は、反転攻勢を始め、天正5年(1577)から高天神城の奪還作戦に着手します。高天神城の周囲に砦を次々と築き、高天神城の補給路を断ち切りました。いよいよ天正8年(1580)には、徳川家康が1万騎をもって高天神城を包囲し、翌年には孤立無援の高天神城を攻略しました。その後、必要性のなくなった高天神城は廃城となり現在に至っています。
本丸近くに残る「大河内幽閉の石風呂(石窟)」
この時、高天神城では徳川家康による奪回を心待ちにしていた人物がいます。徳川家康の家臣・大河内源三郎。武田勝頼が高天神城を奪取した際に捕縛され、約7年間も幽閉されていました。現在も、幽閉されていたとされる石窟が城内に残っています。救出された時には歩行が困難になっていましたが、温泉療養を経て、徳川家康の元で再び仕えることになります。大河内源三郎の徳川家康に対する忠誠心には驚かされますが、その人柄は、高天神城を守っていた武田方の城番、横田尹松(よこたただまつ)も動かし、敵方でありながら密かに厚くもてなしたとされます。
高天神城へのアクセスと「一城別郭」の歩き方
「土方」停留所に到着する路線バス「しずてつジャストライン」
高天神城への起点となるのは、JR東海道本線「掛川駅」。掛川駅から北に約1km、城下町を抜けるとまず、掛川城(日本100名城)があります。高天神城は、その掛川城から約10km南に位置します。
高天神城へは、掛川駅から路線バス「しずてつジャストライン」で約25分の「土方」停留所で下車。停留所から案内板に沿って歩くこと約15分、鶴翁山麓の高天神城追手門にたどりつきます。
せっかくなので、掛川城も合わせて見学してみては?
追手門近くに設置された「高天神城想像図」。地形の臨場感が伝わってくる
追手門は鶴翁山の東峰にあたり、三の丸を経て本丸につながります。これで登城は終わりではなく、西峰にも足をのばし、西の丸など武田勝頼が拡張した曲輪もお見逃しなく。東峰と西峰の間はくぼんだ谷になっており、井戸曲輪が築かれています。すべて回れば、高天神城の特徴である、東峰と西峰それぞれに独立した曲輪が存在する「一城別郭」の構造がよく分かりますよ。
まさに山あり谷ありの高天神城を歩きながら、武田信玄・勝頼親子と徳川家康の栄枯盛衰を偲んでみてはいかがでしょうか。
住所:静岡県掛川市上土方嶺向
電話番号:0537-72-1143(掛川市立大東図書館)
入城時間:入城自由
入城料:無料
アクセス:JR東海道線「掛川駅」からしずてつジャストライン掛川大東浜岡線「浜岡営業所」行き、または「大東支所」行きで約25分「土方」停留所下車、徒歩約15分
執筆・写真/藪内成基(やぶうちしげき)
奈良県出身。30代の城愛好家。国内旅行業務取扱管理者。出版社にて旅行雑誌『ノジュール』などを編集。退職し九州の城下町に移住。観光PRやガイドの傍ら、「城と旅」をテーマに執筆・撮影。
※歴史的事実や城郭情報などは、各市町村など、自治体や城郭が発信している情報(パンフレット、自治体のWEBサイト等)を参考にしています