【日本100名城・萩城編(山口県)】 約1億年前の火山を利用した!?毛利家再起の名城

西郷隆盛を擁する薩摩藩(鹿児島県)とともに幕末の主人公に躍り出る長州藩(山口県)。周防(すおう)国と長門(ながと)国を合わせた二国の中心として栄えた萩城は、関ヶ原の戦いで西軍の総大将を務めたが、敗れてしまった毛利輝元(もうりてるもと)が築城しました。再起を図る毛利家の居城は、実は約1億年前の火山によってできた岩山を利用して築かれたのでした。地形にも注目しながら萩城の歴史をひもときます。


天守台の石垣と背後の指月山

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天守台跡の背後には詰丸があった指月山がそびえる

慶長9年(1604)、毛利輝元によって萩城は築城されました。指月(しづき)山麓に築城したことから、別名「指月(しづき)城」と呼ばれ、山麓の平城と山頂の山城とを合わせた平山城。本丸、二の丸、三の丸、指月山とよばれる詰丸(つめのまる)から構成されています。

本丸には桃山時代初期の様式で、高さ14.5mの白亜五層の天守がありましたが、明治7年(1874)に天守はじめ、建物は全て解体され、現在は礎石と台座のみを残しています。天守跡を中心に土塁が内堀に沿って連なり、武者走り、矢倉台座跡が見られます。

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天守台跡は本丸南西隅に突出するように築かれた

萩城には白い石が石垣としてたくさん使われていますが、この石の正体は火山の噴火によりできた花こう岩。詰丸が築かれた指月山は、花こう岩でできた山で、そこから切り出したと考えられています。火山性の岩に恵まれた土地を生かし、整備されたお城だということがよくわかります。

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扇のように勾配をもつ高石垣が美しい天守台跡

広島城112万石から萩城36万石で再スタートした毛利輝元

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二の丸南門跡に立つ毛利輝元公像

築城主の毛利輝元は、毛利隆元の長男として天文22年(1553)に生まれました。毛利隆元は、毛利元就の長男でしたが、永禄6年(1563)に若くして亡くなり、祖父・毛利元就の跡を継ぐ形で、毛利輝元が当主となりました。

その後、毛利輝元は中国地方を代表する大名に成長し、中国地方8か国112万石を領有。天正17年(1589)には広島城を築城しました。豊臣家の五大老にも数えられますが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、西軍の大将に選ばれるものの敗れ、大幅に所領を削られ、周防・長門(ともに山口県)36万9000石として移封。慶長9年(1604)に居城を萩城に決め、萩城の築城を始めました。まさに苦難のスタートでした。

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萩城跡の中央高台に立つ志都岐山神社

萩城跡指月公園内には、志都岐山(しづきやま)神社があり、毛利元就をはじめ、隆元、輝元、敬親、元徳を5柱とし、初代から12代まで萩藩歴代藩主が祀られています。志都岐山神社のミドリヨシノは珍しい桜の品種で、山口県の天然記念物に指定されています。

石切場が残る詰丸の指月山

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指月山は日本海に島状に突き出している

天守台の背後にそびえる標高143mの指月山には、萩城の詰丸が築かれ、城内と海を監視する場所として利用されました。山頂までは登山道があり、登ると徒歩20~30分ほど。別名「要害山城」と呼ばれ、二の丸と本丸から構成され、周囲を石垣と土塀で囲っていた本格的な山城です。飲料や消火用の貯水施設であった用水や池の跡も残っています。

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周囲を石垣で囲まれた実戦用の砦

城ファンにたまらない、石切場の跡も残っています。多数の矢穴が開いた岩から築城過程がうかがい知ることができます。指月山は、約1億年前にマグマが冷え固まってできた、火山性の岩・花こう岩によってできています。

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石切り場の跡では矢穴がはっきり残った石が多数見られる

ちなみに、地質や動植物から地球(ジオ)を学び、丸ごと楽しむことができる場所を「ジオパーク」と呼びますが、萩城跡を含む萩は2018年9月に「日本ジオパーク」に選定されています。まさに地質の面から見ても貴重なお城なのです。

三の丸跡の武家屋敷と城下町も世界遺産!

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堀内地区では夏みかんの木が植えられた武家屋敷が目立つ

かつての三の丸にあたる堀内地区は、近世城下町の武家屋敷としての地割が今もよく残り、永代家老(毛利藩における一門に次ぐ名門)である益田家の物見矢倉など10数棟の武家屋敷が残っています。土塀越しには夏みかんが見え、いい雰囲気を醸し出しています。萩は夏みかん栽培発祥の地。明治時代に禄を失った武士たちの救済を目的とし、空き地となった武家屋敷地に夏みかんが植えられたのでした。

堀内地区に残る鍵曲(かいまがり)と呼ばれる道筋もみどころ。左右を高い土塀で囲み、道を鍵の手(直角)に曲げた独特のつくりをしています。藩の諸役所や、毛利一門など大身の武家屋敷が並んでいた道を散策して往時をしのんでみるのもいいかもしれません。

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石造りの平安橋。手前が堀内地区、橋を渡ると城下町

堀内地区と城下町を分ける外堀に架かる「平安橋」もお見逃しなく。萩城三の丸には、北総門、中総門、平安古総門の3つの門があり、それぞれに橋が架かっていましたが、現存するのは平安橋のみ。慶安5年(1652)の萩城下町絵図には木橋として描かれています。他の石橋が明和年間(1764~71)に構築されているため、同時期に石造りに架け替えられたといわれています。

萩の町並みは、昭和51年(1976)に始まった国の伝統的建造物群保存地区制度で、全国初の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されています。また、平成27年(2015)7月には、城下町は萩城と合わせた「萩城下町」として、「明治日本の産業革命遺産」の構成資産のひとつとして世界遺産にも登録されています。日本が産業化を目指した地域社会をよく示す遺跡として評価されているのです。

東萩駅が拠点、藩主が愛した景色を楽しむなら玉江駅

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ターミナル駅の「東萩駅」。城下町や武家屋敷を経て萩城に至る

萩城への起点は、萩城東方約3kmのJR山陰本線「東萩駅」。山陰本線の主要駅であり、萩城方面への路線バスが出ています。一方、最寄り駅は、東萩駅の2つ西側(方面)にある「玉江駅」。駅からは萩城や城下町を取り囲むように流れる橋本川河畔の風景が楽しめます。また「玉江秋月」として、4代藩主・毛利吉広が定めた「萩八景」のひとつにも数えられる風光明媚な景色も眺めることができます。行きか帰りのいずれかは玉江駅を利用し、藩主が愛でた風景を味わってください。

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萩城の最寄り駅「玉江」駅。日本海に注ぐ橋本川を渡って萩城を目指す

萩城の美しい石垣の背景には、幕末の主人公に躍り出る長州藩、関ヶ原の戦いから再起を図る毛利家、そしてはるか1億年前の火山活動…と、数々の歴史ドラマが浮かび上がってきます。


萩城
住所:山口県萩市堀内字旧城1-1
電話番号:0838-25-3131(萩市役所)
入城時間:【4~10月】8時~18時30分、【11~2月】8時30分~16時30分、【3月】8時30分~18時(萩城跡指月公園)
入城料:大人220円(萩城跡指月公園)
アクセス:JR山陰本線「東萩駅」から萩市内循環バス「まぁーるバス(西回り)」で「萩城跡・指月公園入口」停留所下車、徒歩約4分。または、JR山陰本線「玉江駅」から徒歩約25分(約2km)

執筆・写真/藪内成基(やぶうちしげき)
奈良県出身。30代の城愛好家。国内旅行業務取扱管理者。出版社にて旅行雑誌『ノジュール』などを編集。退職し九州の城下町に移住。観光PRやガイドの傍ら、「城と旅」をテーマに執筆・撮影。

※歴史的事実や城郭情報などは、各市町村など、自治体や城郭が発信している情報(パンフレット、自治体のWEBサイト等)を参考にしています

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