お城の現場より〜発掘・復元最前線 第24回【指月城】大地震で失われた城の姿を探る

城郭の発掘・整備の最新情報をお届けする「お城の現場より〜発掘・復元・整備の最前線」。第24回は、豊臣秀吉が自分の隠居城として築き、慶長伏見地震で大きな被害を受けた後、木幡山城に取り込まれたため縄張などの詳細が不明だった「まぼろしの城」指月城の発掘調査の様子を、公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所の山本雅和さんがレポート!




宇治川南岸、指月丘
宇治川南岸から指月丘を望む

まぼろしの城・指月城の遺構調査

伏見城は豊臣秀吉が築いた城郭で、築城から廃城までの約30年間に、豊臣期指月屋敷・豊臣期指月城・豊臣期木幡山城・徳川期木幡山城の4段階の変遷が想定されている。指月城はこの前半期にあたる。

指月城の位置は宇治川北岸の指月丘に推定されている。木幡山城造営にあたって城下が大きく広げられ、指月城跡地にも新たに武家屋敷が築かれたため、長くその痕跡は明らかとなっていなかった。

指月城の確実な遺構が見つかったのは2009年のことである。現地表下約0.5mで木幡山城城下造成の整地層、約1.6mで北面・西面する石垣を検出した。

alt
 指月城北西角推定地で見つかった石垣(北面部分)

石材は3段以上積み上げており、残存高は1.8m以上、裏込めは1~20cmの礫を含む粘質土である。北面する石垣北側は堀の埋土のシルト層(砂より細かく、粘土より荒い砕屑物の堆積層)、西面する石垣西側は豊後橋に繋がる街路となることから、ここが指月城の北西角にあたると考えられる。

2015年の発掘調査では、現地表下約3mで東面する石垣と幅9m以上、深さ2.4m以上の南北方向の堀を検出した。石材は3段以上積み上げており、残存高は1.5m以上、裏込めには3~10cmの礫を密に詰める。その後、石垣や堀は厚さ約2.5mの整地層で埋め立てられ、木幡山城期の武家屋敷にともなう西面する石垣が築かれた。

石垣断面模式図
石垣断面模式図。石垣1が指月城の石垣、石垣2は木幡山城城下の武家屋敷の石垣である(京都市文化財保護課作成)

この西側で実施した2016年の発掘調査では、現地表下約2.5mで東面する石垣と南北方向の堀を検出した。

指月城の石垣
 最も良好な状態で見つかった指月城の石垣

石材は6~7段に積み上げており、最大残存高は約2.8m、裏込めには5~15cmの礫を密に詰める。また、目地には小石を充填しており、石材の1つには墨書記号を認めた

墨書記号
白っぽい石材の中央にうすく「〇」に「\」の墨書記号が見える

2016年からは京都市文化財保護課により、指月城の遺構の残存状況および内容を確認するための調査が続けられており、木幡山城期の石垣・柱穴・溝・土坑などの遺構や城下造成にともなう分厚い整地層を検出している。指月城に関しては、現地表下約2.9mで指月城造営前の旧地表面、厚さ約0.5mの造成土が確認できたことが大きな成果である。

指月城築城前の旧地表面
部分的に深く掘り下げた箇所で指月城築城前の旧地表面を確認した

調査で明らかになった指月城の構造

これまでの調査成果や地形をもとに指月城の構造をまとめてみる。指月城は東西約500m、南北約200mの範囲に復元できる。検出した石垣や堀は北で西に約10度振る方位をとっており、推定地内で検出した木幡山城期の遺構や現地形の段差の方向とも共通することから、これが造営方位であった可能性が高い。現地形は推定地内北東部が最高所となるが、旧地表面や石垣の検出高から、指月城造営にあたって西側に向けて雛壇状の地形が造成されたことがわかる。

出土遺物では、金箔瓦が使用されていたことが判明しており、また、堀の埋土からは土器・陶磁器類とともに建材とみられる木製品が出土している。地震で被災した廃棄物をまとめて埋めたものと考えられる。

木幡山城城下造成の分厚い整地層の下には、指月城の遺構が残されている。「まぼろしの城」とされてきた指月城の実態が明らかになる日は近いかもしれない。


指月城(しげつ・じょう/伏見城/京都府京都市)
天正19年(1591)、豊臣秀吉の隠居屋敷として指月丘に造営が開始された。秀頼誕生を契機として本格的な城郭として整備が進められるが、文禄5年(1596)の大地震で甚大な被害を受ける。木幡山城造営にともない遺構は城下に取り込まれた。

執筆者/山本雅和(公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所)

写真提供/公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所

関連書籍・商品など