お城の現場より〜発掘・復元最前線 第25回【八王子城】悲劇の舞台となった御主殿がよみがえる

城郭の発掘・整備の最新情報をお届けする「お城の現場より〜発掘・復元・整備の最前線」。第25回は、落城の際に城主の一族や城を守る武将たちが、御主殿の滝に身を投げて自害したという悲話が残る八王子城の発掘調査について、八王子市教育委員会の村山修さんが紹介。御主殿からは、他の城では見つかっていない珍しい遺物が出土しています。


御主殿地区、庭園の池跡、調査風景
御主殿地区の整備状況と庭園の池跡の調査風景

落城から400年を機に整備を開始

1990年、八王子城が落城してから400年にあたることから、これを記念し開市400年事業が計画された。この事業の1つとして八王子城跡の整備があった。整備作業に先立ち、江戸時代の八王子城古図に「北条陸奥守殿御主殿」と記された地区の確認調査を1986年から実施。

御主殿の遺構配置図
御主殿の遺構配置図。発掘調査により大型の建物跡が確認され、日用品や武具も出土した

開始年はこの地区の東側を調査、石敷きの階段を検出し、虎口であることを確認した。翌年、この虎口の構造を確認するため調査範囲を広げたところ、石垣を有する枡形虎口であることがわかり、この場所が古図に記された城主の御主殿であるとともに城の重要部であることが確認された。この成果をもとに、1990年に御主殿虎口の整備が終了し、開市400年事業が御主殿地区で行われた。

御主殿虎口の全景
御主殿虎口の全景。現在は石垣などが整備されて遺構が見やすくなっている

御主殿地区は東側部分とともに御主殿内部と思われる部分の確認調査を行い、礎石や被熱した地面、多くの遺物などが検出され、1992・1993年の2か年をかけ発掘調査を行った。調査により2棟の大型建物跡、庭園跡、石敷水路などの遺構とともに、約70,000点という膨大な数の遺物が出土した。

庭園の池跡
庭園の池跡の調査風景

大型建物跡は9×15間(18×29.4m)と6×11間(13.28×20.86m)という大きさの建物であった。2軒とも礎石を有する建物で、この礎石には落城時の猛烈な火災によって残されたと思われる柱の痕があり、柱の大きさとともに柱の配置から建物内部の間取りも推定することができた。これにより一番大きい建物が政務を行う主殿、もう1つが来客者を饗応する会所であると推定でき、この建物群は城主・北条氏照(ほうじょううじてる)が政治を行った中枢部であることが分かった。

会所跡
2棟確認された大型建物跡の1つ、会所跡の調査風景

全国唯一のレースガラス器が出土

御主殿地区から発見された約70,000点の遺物は大半が破片で、完形な状態で出土するものは見られず、また表面は熱によって変化した遺物も多くみられ、戦いの影響を受けていることがわかる。遺物の種類を見ると、皿や碗、貯蔵用の甕など食器として使用するものが大半を占めていた。この他、茶道具で使用された天目碗や茶臼、建水や水差、風炉、花器、香道具の香炉や雲母など氏照が御主殿で使用していた文化活動の道具がみられ、大量の食器とともにここが政治の場であったことが想像できる。

また、鎧の小札(こざね)や刀、鉄鏃(てつぞく)、鉄砲弾やその鋳型、鍛冶を行った際に使用された羽口や坩堝(るつぼ)、鉄砲弾の材料となったと思われる細かく割られた鐘など戦いがこの場所であったことを教えてくれる遺物などもあった。戦国時代の城で、唯一ここでしか出土していないものとして、ベネチア産のレースガラス器がある。このガラス器がベネチアからなぜ八王子城に持ち込まれたかは、史料が残されていないためわからないが、氏照の北条氏での立場がわかる遺物であることを証明するものである。

八王子城、ガラス、出土
出土したレースガラスの破片

その後、調査はしばらく行われなかったが、2013年に先の調査でできなかった部分の調査を行い、主殿の礎石や庭園内にある池跡を検出した。池には護岸石や景石、庭園内の石敷通路などが確認され、北条氏の築庭技術の高さを示すことがわかった。この調査とともに会所を床面まで、主殿の礎石や石敷水路などの復元的整備を行い、戦国時代の御主殿を味わえるようになっている。


八王子城(はちおうじ・じょう/東京都八王子市)
小田原北条氏の支城である八王子城は、北条氏照により築城された。天正18年(1590)6月23日、豊臣秀吉の関東侵攻の一環で前田利家、上杉景勝などの軍勢の猛攻を受け、わずか一日で落城。その後利用されず廃城となった。

執筆者/村山修(八王子市教育委員会)

写真提供/八王子市教育委員会

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