2022/05/10
日本100名城・続日本100名城のお城 【続日本100名城・角牟礼城編】 山上の高石垣に秘められた元村上水軍の野望
角牟礼城(つのむれじょう)は、戦国時代には九州の名門・大友家が治め、島津軍の侵攻に耐えた名城。湯布院温泉と天領日田に挟まれた静かな場所に位置します。現在、城跡には往時の姿を感じさせる高石垣が残っています。また、この角牟礼城の麓に陣屋を構えたのは、江戸時代には、瀬戸内海で村上水軍として名をはせた久留島(くるしま)氏でした。角牟礼城とともに「日本一小さい」といわれる森城下町の知られざる魅力に触れてみましょう。
立派な石畳と石垣で造られた御長坂。角牟礼城麓の末廣神社に通じる
角牟礼城が築かれた角埋山。切り立った岩山の要害だ
最先端の築城技術が生かされた角牟礼城
標高577m、比高約240m、角埋(つのむれ)山の切り立った岩山などの形状を生かした山城は、天然の要害として古くから使われていました。豊後(大分県)北部に位置し、豊前(福岡県)からの攻撃に備えるための重要な城でした。豊後の大名・大友氏と薩摩(鹿児島県)から攻め上がる島津氏とで、天正14~15年(1585~1586)にかけて繰り広げられた豊薩(ほうさつ)戦争で落城しなかった堅固な城として知られます。
毛利高政が手がけた角牟礼城二の丸南虎口には穴太積が残る
豊臣秀吉の九州平定後、文禄2年(1593)に大友義統(おおともよしむね)が改易され、豊臣秀吉の家臣である、尾張国(愛知県)出身の毛利高政(もうりたかまさ)が角牟礼城主に。毛利高政は、その後角牟礼城を織豊系城郭(しょくほうけいじょうかく)へと改修しました。改修の際、豊臣秀吉の大坂城築城に関わっていた経験を生かし、当時最先端の築城技術を角牟礼城に用いた毛利高政。ちなみに織豊系城郭とは、織田信長や豊臣秀吉の時代に流行し、瓦屋根や石垣、天守に特徴があります。二の丸周辺には、当時屈指の石工集団・穴太(あのう)衆による穴太積みが残っています。穴太積みは、野面積み(のづらづみ)の代表的な積み方といわれています。粗野な積み方に見えますが、実は強度や安定性が高い組み方です。この穴太積みは、角牟礼城跡の見どころでもあります。
本丸跡の虎口(出入口)。角牟礼城はハイキングコースとしても人気
毛利高政が角牟礼城にいたのは約7年。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後、佐伯藩(大分県佐伯市)へ転封となってしまいます。
ちなみに、毛利高政が改修を手がけた角牟礼城も佐伯城(大分県佐伯市)も、ともに続日本100名城に選定されています。
瀬戸内海の水軍・来島氏が角牟礼城を廃城にする
角牟礼城麓に築かれた陣屋跡。現在は三島公園として憩いの場になっている
関ヶ原の戦いの後、角牟礼城のある玖珠(くす)領主となったのは久留島(くるしま)氏。瀬戸内海で活動していた「村上水軍」が三家に分かれたひとつ、来島(くるしま)水軍として戦国時代に名を轟かせました。関ヶ原の戦いで久留島氏は、敗れた西軍に味方したにもかかわらず取り潰されずに特別に許されたという背景があり、玖珠の領主になると角牟礼城を廃城にし、徳川家に恭順の意を示しました。久留島氏の石高は1万石余りであったため、お城を構えることはできず、角牟礼城の麓(現在の三島公園)に陣屋(無城大名の居所)を築きました。角牟礼城は江戸時代の絵図に「古城」と書かれているように、以降は放置されていたと考えられています。
使っていないはずの角牟礼城は江戸時代に修復されていた?
角牟礼城は平成5年より玖珠町教育委員会により発掘調査が進められている
廃城となり、放置されていたはずの角牟礼城ですが、不思議な発掘結果が報告されました。平成5年度から行われた発掘調査によると、城内の出土遺物として、16世紀後半(一部17世紀初頭)の輸入陶磁器・国産陶磁器が出土しており、毛利氏が居城した時期と異なります。また、使われていないはずの角牟礼城の石垣が久留島氏時代のものと考えられる箇所もあり、櫓や城門などの建物は撤去したものの、石垣の修理は続けていたことになります。有事に備えて角牟礼城跡周辺は管理され、通常は一般の入場は禁止されていました。
江戸幕府に内密に造られた「城」
8代藩主・久留島通嘉が改修した三島神社(現在の末廣神社)にはまるで城のような石垣が築かれている
8代藩主・久留島通嘉(みちひろ)は、陣屋の敷地にあった三島神社を大規模に修復します。すると幕府に内密のまま、まるで城郭のような造りに変えてしまいました。御長坂(おながさか)と呼ばれる参道を上ると垂直に積み上げられた石垣が築かれるなど、まるで城のような造り。御長坂には大量の石垣が用いられています。
天守を模したと考えられている御茶屋「栖鳳楼」
紅葉を愛でるための御茶屋「栖鳳楼」(せいほうろう)も造られました。神社参篭(御通夜)や、花見、月見の場として使われていたそうです。二階からの眺望は素晴らしく、玖珠の城下町や周囲の山々を一望でき、城の天守を模しているのではないかと考えられています。やはり城への未練が残っていたのでしょうか。
「栖鳳楼」は紅葉の名所とされるが、現在も角牟礼城の登城道では色づく紅葉が見られる
森藩は別府に鶴見村という飛地を有しており、三島神社の改修にかかる藩の財政を支えたのは、明礬(ミョウバン)だったと考えられています。明礬温泉は現在も別府の有名な温泉のひとつですが、当時から血止め薬などに用いられる明礬の全国屈指の生産地として、森藩は知られていました。
「日本一小さい」城下町を散策
森藩は豊後の8つの藩(府内藩・杵築藩・佐伯藩・岡藩・森藩・臼杵藩・高田藩・日出藩・立石藩)の中で最小の藩。約270年間政藩した来島ですが、その名を「久留島」と改めたのは、2代藩主・来島道春(みちはる)の時。また、小藩であったため、お城を持つことを許されなかった森藩ですが、とくに8代藩主・久留島道嘉(みちひろ)が、三島神社を改装し城郭化した辺りに、久留島氏の野望を見つけることができそうです。「日本のアンデルセン」と称された児童文学者・久留島武彦(くるしまたけひこ)は、久留島家の末裔です。玖珠町に今も残る城下町には、久留島武彦記念館のほか、陣屋や武家屋敷跡が配置され、往時の庭園や屋敷の地割を見ることができます。森藩ゆかりの歴史を味わいながら散策を楽しんでみては?
今も城下町の雰囲気が残りのんびり散策したくなる
ハイキングコースとしても人気の角牟礼城や玖珠町の城下町へ、元水軍・久留島家の秘められた「野望」を探しに出かけてみてはいかがでしょうか?
執筆・写真/藪内成基(やぶうちしげき)
奈良県出身。30代の城愛好家。国内旅行業務取扱管理者。出版社にて旅行雑誌『ノジュール』などを編集。退職し九州の城下町に移住。観光PRやガイドの傍ら、「城と旅」をテーマに執筆・撮影。『地域人』(大正大学出版会)など。海外含め訪問城は500以上。知識ゼロで楽しめる城の情報発信を目指す。
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