【続日本100名城・諏訪原城編】城の役割はたった20年!なのに歴史ロマン溢れる絶賛の城

遠江と駿河、2つの国の境に築かれた諏訪原城は、武田氏と徳川氏の戦があった城。戦うことを念頭に築かれた戦国の城です。諏訪原城といえば、巨大な「丸馬出」! そして、2017年に復元された話題の薬医門や、周辺にあるオススメ関連スポット「金谷坂の石畳」なども見逃せません。諏訪原城を120%楽しむための情報をお届けします!



サクッとわかる諏訪原城の歴史 諏訪原城、縄張図

諏訪原城の縄張図(提供:島田市教育委員会)

諏訪原城は、武田勝頼が徳川氏の領土である遠江への侵攻を計り、天正元年(1573)に築かれました。しかし、武田氏は天正3年(1575)の長篠の合戦で、織田・徳川連合軍に大敗。諏訪原城も徳川氏に奪取され、徳川氏による駿河侵攻の拠点「牧野城」として改修されました。武田氏が滅亡するとその役割を終え、天正18年(1590)頃に廃城したと考えられています。

武田流築城術の典型と考えられていた諏訪原城ですが、2016年までに行われた発掘調査によって、今見る土塁や堀のほとんどに徳川家の手が入っていたことがわかりました。諏訪原城は、研究者の間でも物議を醸す話題の城なのです!

見どころは、巨大な「丸馬出」

諏訪原城、二の曲輪中馬出
二の曲輪中馬出は諏訪原城のシンボルのような存在! もし自分が足軽ならば、この虎口は絶対に突破できないだろう

諏訪原城といえば、城内に7カ所設けられた丸馬出が特徴的。なお、「馬出」とは防衛力を強化するために虎口の外側に設けられた区画のことです。とりわけ「二の曲輪中馬出」は、この城を代表する見どころとなっています!

諏訪原城、二の曲輪中馬出、土橋
二の曲輪中馬出から北馬出へと繋がる土橋。写真の手すりが設置された側には土塁の痕跡が見つかっている

こちらは、二の曲輪中馬出から北馬出へと続く土橋です。島田市教育委員会の担当者によると、この土橋の城外側(上記写真では左手側)には土塁の跡があったことから、通過する人を隠すために塀や柵のようなものがあったと推測されるそうです。さらには、土橋の一部を切り、そこに木橋が掛かる凝った構造だったようで、この木橋も再現されています。

諏訪原城、薬医門
2017年に復元された薬医門

2017年には、調査でわかった成果をもとに「二の曲輪北馬出」に薬医門を復元しました。

薬医門を訪れた際には、扉を閉めてみましょう! 左右の扉を閉めると3cmほどの隙間ができます。この隙間こそ重要で、例えば槍を持った敵兵が扉に迫った時、扉を閉めたくても槍で邪魔をされて、扉を完全に閉められなくなってしまいます。しかし、扉の間に槍が入るほどの隙間があれば、槍を向けられても閉扉し、閂を差すことができるのです。

これぞリアルな戦国の知恵ですね! なお、扉を動かしたあとは、元の位置に戻すなどマナー遵守をお願いします。

武田と徳川のハイブリット城を歩く 諏訪原城、空堀

二の曲輪東内馬出と東外馬出の間の空堀。空堀と市街地が同時に望めるビュースポット!

諏訪原城を訪れたら、二の曲輪中馬出だけではなく城内全域を歩いてみましょう!

徳川氏が諏訪原城攻略のために仕掛けた戦では、二の曲輪の東内馬出付近での合戦があったようで、発掘調査では鉄砲玉が50点以上出土しています。この辺りは武田氏時代と徳川氏時代の2つの遺構が見つかっており、武田氏時代の諏訪原城もここまで城域が及んでいたことがわかります。ちなみに、土の城は草の枯れた冬季が最も見やすいですよ!

諏訪原城、両袖枡形虎口
本曲輪には両袖枡形虎口が見られる

本曲輪からは、焼土層を挟み武田氏と徳川氏の2期の遺構が確認されています。二の曲輪から本丸に入る虎口は「両袖枡形虎口」と呼ばれる武田氏の城の特徴ですが、焼土層の上に築かれた、曲輪を囲む土塁上に位置するため、徳川氏時代に造築された可能性が高いと考えられています。

両袖枡形虎口は、他にも続日本100名城の古宮城(愛知県)や新府城(山梨県)で見ることができるので、諏訪原城の両袖枡形虎口とどう違うのか?比較して歩くのも面白そうですね!

諏訪原城
断崖上に位置する本曲輪からの眺めは、大井川をはじめ、島田市や藤枝市の市街地が広がる

諏訪原城は、大井川と牧ノ原台地の断崖を背にした位置に築かれています。この牧ノ原台地は、幕末に徳川家の旧藩士たちが茶畑を開墾したことにより、お茶の産地となりました。

本曲輪からは、訪れた者だけが味わえる絶景が広がります。さらに、天気の良い日には富士山が顔を覗かせることもあるのです! この景色も含めて、諏訪原城散策を満喫して下さい。

もっと極めたい人は「金谷坂」も訪れて!

諏訪原城、金谷坂
島田市の市指定史跡、旧東海道「金谷坂の石畳」。苔のついた丸い石はなんとも味わいがある!

諏訪原城の目の前には旧東海道が通っており、徒歩5分ほど歩いた場所にある旧東海道の坂道「金谷坂」は金谷宿と日坂宿を繋ぐ峠の坂道でした。金谷坂の石畳には、約30mに渡って当時の石畳が残っていましたが、現在は復元され延長430mの長さになっています。

石畳は山道を歩きやすいようにと石が敷きつめられたもの。江戸時代の面影が感じられるスポットです! このような旧街道の石畳は、箱根峠や中山道の十曲峠などごくわずか。貴重な史跡ですね。諏訪原城と併せて訪れたい、周辺のオススメスポットも行ってみてくださいね!

住所:静岡県島田市菊川1174
電話:0547-36-7967(島田市教育委員会 文化課 文化財係)
アクセス:東海道線「金谷」駅より徒歩約30分。駐車場あり。


いなもとかおり
 執筆/いなもと かおり
 お城マニア&観光ライター
 年間120城を巡る城マニア。國學院大學文学部史学科古代史専攻卒。19歳の時に、会津若松城に一目惚れしてから城の虜となる。訪城数は600ほど。国内旅行業務取扱管理者、日本城郭検定1級、温泉ソムリエ、夜景鑑賞士2級の資格をもつ。城めぐりの楽しみ方を伝えるべく、テレビやラジオにも出演中。※2021年9月プロフィール更新

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