【続日本100名城・延岡城編】戦国時代から西南戦争まで激動の九州を見守り続けた城

延岡城といえば、見るものを圧倒する迫力の「千人殺しの石垣」が有名です。とある部分の石を外すと石垣が崩れ落ちると伝わりますが、この石垣を造った高橋元種は、豊臣秀吉に立ち向かった筑前(福岡県)の名家出身です。その後は禁教令に翻弄されたキリシタン大名・有馬氏の代となり、最後の延岡城主・内藤家の時代には西南戦争を迎えます。延岡城を訪れる前に知っておきたい、九州の大きなターニングポイントの影響を受け続けたお城の歴史をご紹介しましょう。



「千人殺しの石垣」に代表される歴史ある石垣を楽しむ
延岡城、千人殺しの石垣
延岡城を代表する「千人殺しの石垣」は見る者を圧倒する

延岡城、千人殺しの石垣
隅から見上げると「千人殺しの石垣」の迫力を一層体感できる

延岡城といえば「千人殺しの石垣」がよく知られます。高さ約19m、総延長約70m、最下部にある隅石(壁の隅部分に積まれる石)を外すと石垣が崩れ落ち、敵を壊滅させる仕掛けになっているといわれています。何とも恐ろしい名前がつけられていますが、この千人殺しの石垣以外にも、二の丸北西櫓や二階櫓北面の石垣など、築城期(戦国時代末期)や有馬期(江戸時代前期)の石垣が残っています。

延岡城、千人殺しの石垣、看板
「千人殺しの石垣」という名は一度聞くと忘れられない

延岡城は天守台、本丸、二の丸、三の丸からなる本城(現在の城山公園)と、藩主の居宅である西の丸(現在の内藤記念館・亀井神社)の2つの郭で構成されています。五ヶ瀬(ごかせ)川と大瀬(おおせ)川に挟まれた標高約53mの丘陵を利用し築城されました。

延岡城を築いた高橋元種は秋月氏の出身

延岡城、山丘
川に挟まれた標高約53mの山丘に築かれた延岡城

延岡城は慶長6年(1601)から慶長8年(1603)にかけて、高橋元種によって築城され、当時は県(あがた)城とよばれていました。「元種」という名を聞いてピンときた鋭い「城びと」読者もいらっしゃるかと思います。高橋元種は元々、筑前国(福岡県)の名家・秋月氏の出身。豊臣秀吉に立ち向かった秋月種実(あきづきたねざね)の次男でしたが、高橋家の養子へとなり高橋元種と名乗ることになりました。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで東軍に寝返り、延岡の所領を安堵されます。


秋月家、高橋元種
高橋元種は城下町秋月(福岡県朝倉市)を治めていた秋月家出身

残念ながら高橋元種は慶長18年(1613)、罪人をかくまった罪で改易されてしまいます。送られた先は陸奥国棚倉(たなぐら)。関ヶ原の戦いで西軍についたために柳川(福岡県柳川市)の所領を失っていた立花宗茂(たちばなむねしげ)が、棚倉にあった赤館(あかだて)城主。奇しくも、戦国時代に筑前国(現在の福岡県)に所領を有していた2つの大名家が、はるか奥州(東北)で出会うことになりました。

禁教令に耐え切れなかった有馬氏が延岡城へ移り大修築 

延岡城、有馬氏、二階門櫓跡
有馬氏が延岡城主だった時代に築かれた二階門櫓跡

高橋元種が改易された後、延岡城主となったのは有馬直純(ありまなおずみ)。肥前国日野江(長崎県南島原市)城主で、キリシタン大名・有馬晴信(ありまはるのぶ)の次男でした。慶長17年(1612年)に起きた、キリスト教禁教のきっかけとなった「岡本大八事件」の罪で父の有馬晴信は改易(後に死罪)。有馬直純は父同様キリシタンであったにも関わらず、徳川家康の側近であったため許され、日野江城主として家督を継ぐことになります。しかし、同年に出された禁教令によるキリスト教迫害に耐え切れず、江戸幕府に転封を願い出て、延岡に移ることになりました。

延岡城、本丸跡、内藤政拳像
延岡城本丸跡を見守るかのように最後の延岡城主、内藤政拳の像が立つ

有馬直純から3代、有馬氏が続きます。2代の有馬康純の代に、延岡城の大修築が行われ、三階櫓や本丸二階門、二階櫓などが建てられました。この頃から「延岡」の地名が見られるようになります。その後、3代有馬永純の時に、天和2年(1682 天和3年説もあり)に、火災のため三階櫓が焼失し、以降も三階櫓は再建されませんでした。

有馬氏がつなぐ延岡城と丸岡城(福井県坂井市)の縁

丸岡城、延岡城、ゆかり、天守
天守が現存する丸岡城(福井県坂井市)は、延岡城とゆかりが深い城

有馬氏は延岡城主として3代78年間続いた後、越後国糸魚川藩(新潟県糸魚川市)への移封を経て、元禄8年(1695)に越前国丸岡藩(福井県坂井市)に入封、明治維新を迎えています。丸岡城は「現存する十二天守」のひとつであり、天守は国の重要文化財。現在、国宝指定に向けて動いています。そんな折の2017年8月、福井県坂井市に住む元有馬家家臣の子孫より情報提供があり、延岡城の木製模型(木図)が福井県坂井市で見つかるというニュースがありました。ひとつの木材から城郭の縄張りを削り出しており、横70cm、奥行き40 cm、高さ20cmの大きさ。ちなみに延岡市と坂井市は、延岡藩主だった有馬氏が丸岡城主になったことが縁で、丸岡城築城400年を迎えた昭和54年(1979)に姉妹都市を結び、交流を深めています。

最後の延岡城主・内藤氏は明治維新後も延岡の発展に貢献

延岡城、内藤政拳
最後の延岡城主・内藤政拳は教育や電力事業に尽力し延岡の発展に貢献した

有馬氏の後には、徳川家の譜代大名である三浦氏と牧野氏を経て、延享4年(1747)、に内藤政樹(ないとうまさき)が陸奥磐城国平(福島県いわき市)から7万石で入封しました。明治維新に至るまでの123年間、延岡藩は内藤氏の時代となります。 その後、明治2 年(1869)に版籍奉還が行われ、内藤政挙(ないとうまさたか)が延岡藩知事に任命されました。明治4年 (1871) に廃藩置県が実施された後、明治維新後も内藤氏の時代は続き、内藤政挙(まさたか)が延岡藩知事に任命。延岡藩 は延岡県、宮崎県を経て鹿児島県に含まれた時期に、 明治11年(1877)の西南戦争を迎えます。

延岡の旧藩士たちは「延岡隊」として西郷隆盛率いる薩摩軍に加わりました。  薩摩軍が熊本城の攻略に失敗して敗退すると、延岡も陥落。海から新政府軍の艦艇が延岡城付近に艦砲射撃を浴びせていました行いましたが、すでに新政府軍が延岡を占領した後であり、新政府軍は艦砲射撃をやめさせるため、延岡城の太鼓櫓を焼いて戦い終了の  合図としました  。内藤氏はその後も延岡の発展のために貢献しますが、昭和9年(1934)、内藤政道(まさみち)が城山を公園用地として延岡市に寄付。内藤氏の時代が幕を閉じます。  


延岡城、北大手門、復元、供養塔、内藤家墓碑
平成5年に復元された延岡城北大手門。内藤家墓碑及び供養塔が隣接する

豊臣秀吉に立ち向かった秋月家、キリシタン大名・有馬家、西南戦争に加わった内藤家。延岡城の歴史を追うと、激動の九州の歴史が見えてくるはずですよ。

延岡城
住所:宮崎県延岡市東本小路
入城時間:自由
入城料:無料
アクセス:JR日豊本線「延岡」駅から徒歩約25分、または宮崎交通バス「保健福祉大学」行きで約7分「市役所前」停留所下車徒歩約5分、またはまちなか循環バス(内回り線・しろやま号)で約7分「九電前」停留所下車徒歩約1分

執筆・写真/藪内成基(やぶうちしげき)
奈良県出身。30代の城愛好家。国内旅行業務取扱管理者。出版社にて旅行雑誌『ノジュール』などを編集。退職し九州の城下町に移住。観光PRやガイドの傍ら、「城と旅」をテーマに執筆・撮影。『地域人』(大正大学出版会)など。海外含め訪問城は500以上。知識ゼロで楽しめる城の情報発信を目指す。

※歴史的事実や城郭情報などは、各市町村など、自治体や城郭が発信している情報(パンフレット、自治体のWEBサイト等)を参考にしています

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