【日本100名城・鳥取城編】球型の石垣と片山東熊の建築に出合える類例ない名城

「城郭の博物館」とも称され、戦国時代から江戸時代にかけて様々な時期の遺構が残る鳥取城。圧倒的な石垣の量だけでなく、球型に積み上げられた巻石垣など鳥取城でしか見られない石積みも魅力的です。さらに、「宮廷建築の第一人者」片山東熊が手がけた洋風建築、仁風閣も大きな存在感。鳥取城ならではのみどころについてご紹介します。



鳥取城、天球丸、巻石垣
亀の甲羅のように球状に石垣が積み上げられた「天球丸の巻石垣」

球型に積み上げられた天球丸跡の巻石垣

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「天球丸の巻石垣」と同様の積み方が鳥取城以外で用いられた例はない

鳥取城は、戦国時代の山城(山上の丸)と麓の近世城郭(山下の丸)からなるお城で、広大な城域には各時期の遺構が残っています。見事な高石垣も現存し、どこから見ればいいのか迷ってしまうほど。その中でも特に目を見張るのが、「天球丸跡」の「巻石垣」です。亀の甲羅のような形状に積み上げられ、鳥取城でしか見られない大変珍しい形の石垣です。石垣が崩れるのを防ぐために球型に積み上げたそうなのですが、何とも不思議な形です。近世において河川の制水施設や護岸に用いられた石垣の技術が、鳥取城に生かされたのではないかと考えられています。

鳥取城の巻石垣は近世の絵図にもはっきりと描かれています。天保10年(1839)頃の『御小姓長屋之図』(鳥取県立博物館蔵)に、亀の甲羅状の巻石垣が見られます。文化4年(1807)頃の復旧時に造られ、孕み出した石垣を抑え込むために巻石垣が築かれました。巻石垣導入に至った背景ははっきりとは分かっていませんが、多様な石垣修理の方法が近世に実践されていたことを表す貴重な遺構です。


鳥取城、天球丸
天球丸には三層の櫓があったが享保5年(1720)の火事で焼け再建されなかった

ちなみに「天球丸」の名は、球型に石垣が積み上げられているからではなく、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの後、鳥取城主となった池田直吉の姉・天球院が住んだことに由来します。

増改築が繰り返され「城郭の博物館」と称される鳥取城

鳥取城、二の丸堅石垣、堅堀
幕末に築かれた二の丸堅石垣。背後には巨大な竪堀が造られている

石垣造りの鳥取城は、天正10年(1582)から嘉永2年(1849)までの約270年間かけて段階的に整備されてきました。特に大きな整備を行ったのは、元和3年(1617)に鳥取城主となった池田光政(いけだみつまさ)。それまで5~6万石規模であった鳥取城を、32万石の居城として一新しました。元和5年(1619)には天球丸や二の丸、大手登城路を整備し、鳥取城の主要部分はほぼこの頃に完成したと考えられています。二の丸に建てられた三階櫓には、上層を下層より規則的に小さくして積み上げた当時最新の建築様式、層塔型(そうとうがた)が山陰地方では初めて採用されました。

鳥取城、武具蔵、三階櫓跡
時代の違う建物跡。手前は江戸時代後期に建てられた武具蔵、奥は江戸時代初期に建てられた三階櫓跡

鳥取城内の建物は明治時代に大半が壊され、天守台など残った石垣も昭和18年(1943)の鳥取大地震で崩壊。昭和の半ば頃から石垣を中心とした復元整備がおこなわれ、かつての雄姿を取り戻しつつあります。2021年3月には、鳥取城の大手門にあたる「中ノ御門表門」が復元されました。門の屋根と同じ高さまで、左右の土塀を立ち上げた姿が特徴的です。

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2021年3月に復元工事を終えた中ノ御門表門(大手門)

豊臣秀吉による想像を絶する兵糧攻めと向き合った吉川経家

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久松山(鳥取城跡)を背景にして立つ吉川経家像

近世城郭として整備する以前、鳥取城は歴史上忘れられない戦いの舞台となります。天正9年(1581)、織田信長軍として羽柴(豊臣)秀吉が鳥取城を攻めることになりました。2万の大軍を率いた羽柴秀吉は、吉川経家(きっかわつねいえ)が籠城する鳥取城を囲みます。約20kmにも及ぶ大包囲陣を敷き、救援と食料網を絶つ、徹底した兵糧攻め(ひょうろうぜめ)をおこないました。兵糧攻めが2ヵ月、3ヵ月と続く内に鳥取城内の食料は尽き、ついには人肉を食べるという地獄のような状態となりました。吉川経家は、意を決し羽柴秀吉に降伏。自身が自刃することで、兵と民の命を救いました。35年の短い生涯を閉じる前に吉川経家は4人の子に手紙を残しています。

「とつとりのこと よるひる二ひやく日 こらえ候 ひようろうつきはて候まま 我ら一人御ようにたち おのおのをたすけ申し 一門の名をあげ候 そのしあわせものがたり おきゝあるべく候 かしこ」

追い詰められた状況と、子どもたちへの思いが伝わってくる手紙です。

「宮廷建築の第一人者」片山東熊が建築した仁風閣に100名城スタンプ

仁風閣、瓦屋根、ルネッサンス様式、王冠型、棟飾り、煙突
仁風閣の瓦屋根には、ルネッサンス様式にみられる王冠型の棟飾りと煙突を備える

みどころの多い鳥取城ですが、天球丸の巻石垣と同じくらいじっくり見学して欲しい建物が残っています。それが、白亜の洋館、仁風閣(国重要文化財)です。明治40年(1907)5月、第14代当主・池田仲博侯爵が、宮内省匠頭の片山東熊(かたやまとうくま)工学博士に、池田家の別邸として設計を依頼しました。片山東熊は、赤坂離宮(東京都港区)や京都国立博物館(京都府京都市)など、有名建築を設計し、宮廷建築の第一人者と称されました。

仁風閣は、フレンチ・ルネッサンス様式を基調とした白亜の木造瓦葺2階建て。洋風建築の様々な様式が取り入れられています。仁風閣入口付近は、洋風建築と近世城郭の石垣、中世城郭である久松山が一緒に拝める稀有なロケーションです。

ちなみに「100名城スタンプ」は、仁風閣の中で押すことができます。(※スタンプ設置場所は変更になる場合がありますので事前にご確認ください)

仁風閣、山城、近世城郭
仁風閣から戦国時代の山城(山上の丸)と近世城郭(山下の丸)を望む

仁風閣から鳥取城を後にしようとすると、どこからか懐かしい歌が聞こえてきます。鳥取城の麓に、童謡『ふるさと』の作曲者、岡野貞一(おかのていいち)が通った久松小学校があり、『ふるさと』が流れるのです。歌碑や名曲が流れる案内板が立っているので、こちらもお見逃しなく。岡野貞一は鳥取市に生まれ、鳥取教会で賛美歌やオルガンを通じて音楽を志しました。『ふるさと』のほか、『もみじ』、『春の小川』など多くの有名唱歌で知られています。

岡野貞一、案内板
日本を代表する作曲家・岡野貞一の名曲が流れる案内板

鳥取城で「世界コーヒーサミット」開催!全国屈指のコーヒー消費量を誇る鳥取

二の丸跡、仁風閣、城下町、一望
二の丸跡から仁風閣と城下町を一望する

鳥取城からJR鳥取駅まで約2km。散策してみると、鳥取の町なかでは「コーヒー」の文字をよく見かけます。以前はスターバックスコーヒーが最後まで進出しなかった県としてネタにされていましたが、実は鳥取は全国屈指のコーヒー消費額を誇るコーヒー大好き城下町。

総務省統計局が行う「家計調査」によると、都道府県庁所在市・政令指定都市のコーヒー消費量で、平成27年から29年までの3年平均で鳥取市のコーヒー消費量は全国で2位、消費額は全国で4位にランクインしています。コーヒー消費量の1位は京都市ですので、城下町としては消費量1位といえるかも知れません。

鳥取市内におけるコーヒー文化、喫茶・カフェ文化を盛り上げる目的のため、鳥取珈琲文化振興会という団体があります。2016年には世界コーヒーサミットが開催され、「コーヒーの聖地とっとり」共同宣言が、鳥取城仁風閣で調印されました。

球型に積み上げられた巻石垣や、片山東熊が建築した仁風閣。珍しい建造物だけでなく、戦国時代の城郭と近世城郭が一緒に味わえ、圧倒的な量の石垣の復元が進む鳥取城。みどころが多い鳥取城散策の合間には、城下町鳥取の文化になりつつあるコーヒーで一服するのも粋ですよ。

住所:鳥取県鳥取市東町
電話番号:0857-26-3595(仁風閣)
入城時間:城内自由(仁風閣は9時~17時 ※入館は16時30分まで)
休業日:なし(仁風閣は月曜 ※祝日の場合は翌日)
入城料:無料(仁風閣は150円)
アクセス:JR山陰本線「鳥取」駅から徒歩約30分(2km)。または「鳥取」駅から日交バス・日ノ丸バス「砂丘・湖山方面行き」で約5分「西町」停留所下車、徒歩約5分で上り口、上り口から山上の丸まで徒歩約30分。「鳥取」駅から100円循環バスくる梨「緑コース」で7分、「仁風閣・県立博物館」下車すぐ。土日祝のみループ麒麟獅子バス「鳥取城跡」下車、徒歩5分

執筆・写真/藪内成基(やぶうちしげき)
国内・海外で年間100以上の城を訪ね、「城と旅」をテーマに執筆・撮影。著書『講談社ポケット百科シリーズ 日本の城200』(講談社、2021)。『地図で旅する! 日本の名城』(JTBパブリッシング)や『1日1ページ、読むだけで身につく日本の教養365歴史編』(文響社)などで執筆。城めぐりツアー(クラブツーリズム)の監修・ガイドを務める。

※歴史的事実や城郭情報などは、各市町村など、自治体や城郭が発信している情報(パンフレット、自治体のWEBサイト等)を参考にしています