お城の現場より〜発掘・復元最前線 第23回【村上城】明らかになる黒門の実態

城郭の発掘・整備の最新情報をお届けする「お城の現場より〜発掘・復元・整備の最前線」。第23回は、村上市教育委員会生涯学習課文化行政推進室の塩原知人さんによる、村上城の黒門跡発掘調査の成果のレポートをお届けします。本丸を守る重要な門でありながら、その詳細が謎に包まれていた黒門。発掘調査で検出された門の実態とはいったいどのようなものだったのでしょうか?



史跡村上城跡とは?

村上城、黒門跡、石垣、遺構
調査前の黒門跡。石垣が崩落するなど遺構の残存状態が芳しくなく、近年まで門の正確な位置すら不明だった

村上城は、中世戦国期の遺構と石垣に代表される近世遺構とが渾然一体として良好に残ることから1993年に国の史跡に指定された。標高135mの臥牛山(がぎゅうさん)に築かれた平山城で、天守等は現存しないものの、東国では数少ない総石垣張りの城である。1999年から現在にいたるまで、史跡整備事業として石垣の修復を中心とした整備とそれに伴う発掘調査が継続して行われている。

黒門跡での発掘調査について

2010年から2016年にかけて村上市教育委員会が実施した石垣悉皆詳細調査の過程で、叢中から村上城の大手道と搦手道を隔てていたと思われる石垣の一部が崩壊した状態で確認された。古絵図では、両道は、本丸の黒門(くろもん)という大きな門で合わさり、天守へと続く一本の道として描かれている。これまで、この黒門については、その正確な位置が不明であったが、この崩壊した石垣修復に先行する発掘調査によって、門に関連する遺構が検出され、ようやく実態が判明しはじめた。

村上城、黒門跡調査区、遺構、礎石、排水溝
黒門跡調査区の全景。門の礎石や排水溝跡などの遺構が検出された

発掘調査の開始は2014年からであるが、まずは、藪の開拓と崩落土や崩落石の人力除去からのスタートであった。場所によっては厚さ1mにも達する崩落土を徐々に掘り下げた結果、埋没していた根石や築石34石が新たに検出され、黒門跡石垣の全長が約45mであり、通り(石垣の平面上の配置)も、ほぼ直線であることが判明した。

2018年までの継続調査によって、黒門付随の礎石6基、礎石根固め1か所、雨水処理のための排水溝1条が検出されている。特に、規則的に配された礎石については、山から採取される軟らかい流紋岩系の石垣の石材とは異なる、より硬質の河川由来と思われる扁平で大きな花崗岩系のものが多用されている。さらに、その配列については、正徳元年(1711)の古文書(『村上御城廓』)中の黒門の記載(5間4尺×2間半)と梁間(短辺)方向で規模が合致する。

村上城、礎石、出土村上城、礎石、出土
出土した門の礎石

村上城、排水溝跡、雁木
排水溝跡の検出状況

また、桁行(長辺)方向についても、礎石のすべては検出されていないが、地形の納まりの考察から、古文書の記載と同規模である蓋然性が高く、今まで長く不明であった黒門の位置がほぼ特定できたと考えている。加えて礎石近くからは金具である和釘が多く見つかっており、黒門との関連が想像できる。さらに、黒門跡周辺からは、雁木(がんぎ)(階段状遺構)が複数検出されたほか、塀の柱穴痕や、山の斜面を削って、この搦手道を開設した際、地面を均し、歩きやすいように盛土、突き固めを行ったものと思われる整地層(当時の道路工事の痕跡)などの搦手道に関わる遺構が確認されている。この整地層は2~3面が確認されていることから、数回に及ぶ道の改修が行われていたものと考えられる。

村上城、堆積、遺構、雁木
崩落した土の堆積状況。土の下から雁木の遺構が確認された

村上市教育委員会では、今後、黒門跡石垣の修復整備を行いながら、さらに調査を進めたうえで、黒門および「歴史的な道」である搦手道全体を何らかのかたちで表現できればと考えている。


村上城(むらかみ・じょう/新潟県村上市)
村上城の築城は16世紀初頭と思われ、城主では、上杉謙信と景勝麾下の本庄繁長(ほんじょうしげなが)が中世城郭としての縄張を完成させた。その後、村上城は、本庄家に代わって城主となった堀家とその家臣・村上家によって現在のような石垣を多用した近世城郭へと変貌し、諸大名が頻繁に入れ替わりつつ明治を迎える。

執筆者/塩原知人(村上市教育委員会生涯学習課文化行政推進室)

写真提供/村上市教育委員会

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