太田道灌・徳川幕府・そして皇居へ  江戸城の歴史

現在の江戸城を築いたのは徳川家康ですが、築城には長い年月がかけられ、完成したのは孫の家光の時代だったことをご存知でしょうか? 今回は、城郭ライターの萩原さちこさんが、太田道灌による江戸城の前身の築城から、家康による天下普請(全国の大名に行わせた土木工事)、明治天皇が入城され皇居となるまで、江戸城の歴史を紐解きます。

家康から家光まで、異例の長期築城

現在の江戸城を築いたのは、天正18年(1590)に豊臣秀吉の命で江戸に入った徳川家康です。しかし、家康が江戸城の本格的な築城を開始したのは、慶長8年(1603)3月以降。同年2月に征夷大将軍に任命されると、将軍家の居城としてふさわしい城とすべく整備をはじめたとみられます。まずは大規模な土木工事による城内や城下の敷地拡張をはかるとともに、船運ネットワーク、人口の増加にともなう上水ネットワークを形成するためのインフラ整備が行われました。

家康が開始した江戸城の築城工事は、35年後の寛永15年(1638)、3代・家光の代に一応の完成をみます。全国の城が元和元年(1615)の武家諸法度により動きを止めた一方で、江戸城の築城工事は継続されたのです。築城期間が長いため、たとえば石垣にも技術の発展が見られるのが江戸城の特徴。しかも、天下普請で築かれていますから、担当した大名の技術の違いも見ることができます。

諸大名が採石時や築造時に所有などを刻んだ「刻印石」も、歴史をたどる大きなヒントになります。全国の諸大名が集結する天下普請の城には刻印石が多く、江戸城でも膨大な種類の刻印石が確認できます。内郭にも多く見られますが、寛永13年(1636)につくられた外濠沿いの石垣は寄方と築方が同じなため一貫性が見出せ、担当した大名を特定できます。

丸に矢筈、虎ノ門駅構内、見学スペース、刻印石、佐伯藩毛利家、
虎ノ門駅構内の見学スペースで見られる刻印石。「丸に矢筈」は佐伯藩毛利家の担当を示す。

太田道灌時代の江戸城と江戸

家康が天正18年に江戸入りしたとき、すでに江戸城はありました。長禄元年(1457)に太田道灌が築城し、大永4年(1524)以降に北条氏下の遠山氏が改修した前身の江戸城です。さかのぼれば、鎌倉時代には江戸氏館がありました。道灌時代の江戸城についてはよくわかっていませんが、現在の本丸、二の丸あたりに築かれていたようです。

家康の江戸入りは実質的な左遷で、たとえば秀吉の大坂城(大阪府大阪市)が都市形成にふさわしい地を選んで築かれたのに対して、江戸城は不毛の地に築かざるをえなかったという絶対的な違いがあります。現在の皇居外苑や日比谷、新橋あたりまでは日比谷入り江と呼ばれる海で、JR東京駅からJR有楽町駅にかけては前島と呼ばれる半島状の陸地が突き出していました。その周囲の湿地帯には、未開の原野のようにススキが果てしなく広がっていたといわれます。

近年では、「小田原や鎌倉にはない舟入があるため今後繁栄するだろう」という秀吉の言葉が文書にあり、一方の家康も、江戸湾の奥深くに位置する入り江にあり大量の物資輸送が見込める港を取り込める江戸は、城下町づくりに望ましいと考えていたという説があります。道灌が江戸城を築いた後の江戸の発展はめざましく、平川河口には諸国から商船や漁船が出入りし、鎌倉街道から商人が集まって毎日市が立ち、品川や浅草には社寺が建立され、人家が密集していたともいわれます。これまで考えられていたような絶望の淵に立たされての江戸入りではなかったのかもしれませんが、少なくとも前身の江戸城が古びていたのは間違いありません。築城名人といわれる道灌ですが、築かれたのは100年以上も前のことで、北条氏が改造した江戸城もすでに時代遅れ。簡素な館と土塁がわずかにあるばかりだったと考えられます。


和田倉門渡櫓西側、江戸城、西の丸下曲輪、大名小路曲輪、分水石枡
城内から西の丸下曲輪を経由して大名小路曲輪へと送水した、上水道の分水石枡。和田倉門渡櫓西側の櫓台下にあるもの。

江戸城の終焉と皇居の誕生

ときは過ぎ、慶応4年(1868)4月11日に無血開城すると、江戸城は明治元年(1868)10月13日の明治天皇の入城をもって、東京城と改められました。明治3年(1870)11月からは枡形門の渡櫓など幕府の象徴となるような建物が撤去されはじめ、明治5年(1872)8月には中城域と21の城門や石垣など、新政府が防衛上必要とみなした城門以外は破却。追って、富士見櫓、北桔橋高麗門、数寄屋前多聞櫓を除き、残存していた櫓、城門、塀もすべて破却されました。

本丸ではなく西の丸に明治天皇が入られたのは、焼失した本丸御殿に代わり中枢となっていた二の丸御殿も慶応3年(1867)12月に焼失し、実質的な城の中心が西の丸に移っていたからです。慶応4年(1868)の鳥羽伏見の戦いで敗北した徳川慶喜が入ったのも、西の丸御殿でした。西の丸御殿が明治6年(1873)に全焼すると、明治21年(1888)に新宮殿(明治宮殿)が竣工。明治宮殿は明治政府によって宮城と改称され、現在のように西の丸大手門が皇居正門に、坂下門と乾門が通用門となりました。

明治宮殿は東京大空襲により全焼してしまいましたが、奇跡的に焼失を免れたのが、現在代表的な撮影スポットにもなっている伏見櫓と同多聞櫓です。宮城は昭和23年(1948)に皇居と改称され、皇室財産として皇宮警察が警備することになり現在にいたります。

江戸城、伏見櫓、三の丸巽櫓
伏見櫓。約20棟あった二重櫓のうち、三の丸巽櫓とともに現存する。2棟の続櫓を伴う。

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執筆・写真/萩原さちこ
城郭ライター、編集者。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演など行う。著書に「わくわく城めぐり」(山と渓谷社)、「お城へ行こう!」(岩波書店)、「日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)、「戦う城の科学」(SBクリエイティブ)、「江戸城の全貌」(さくら舎)、「城の科学〜個性豊かな天守の「超」技術〜」(講談社)、「地形と立地から読み解く戦国の城」(マイナビ出版)、「続日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)など。ほか、新聞や雑誌、WEBサイトでの連載多数。公益財団法人日本城郭協会理事兼学術委員会学術委員。

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