お城の現場より〜発掘・復元最前線 第20回 【諏訪原城】徳川家康が改修した境界の城

城郭の発掘・整備の最新情報をお届けする「お城の現場より〜発掘・復元・整備の最前線」。第20回は、武田氏が遠江国獲得のために築いた諏訪原城。島田市教育委員会の萩原佳保里さんに、薬医門の復元や堀の整備などが進められている諏訪原城での、一連の整備に伴う発掘調査で判明した城の姿をご紹介していただきます戦国時代の諏訪原城の姿とは?

諏訪原城、上空
上空から見た諏訪原城跡

武田氏の築城技術を受け継いだ徳川の城

諏訪原城跡では、2004年度~2005年度にかけて史跡整備事業に伴う発掘調査を実施。この発掘調査では、現在見ることのできる土塁や堀のほとんどが、徳川氏時代に造られた可能性が高いということが判明した。まず、本曲輪の発掘調査では、焼土を埋め立てた整地面が確認されている。この整地面の上に、本曲輪を囲む土塁が造成されており、焼土面下層では、柱穴や炭化米、被熱した土塀の壁の一部が確認された。

諏訪原城跡、地形図
諏訪原城跡の地形図

二の曲輪東馬出、諏訪原城、発掘
二の曲輪東馬出の発掘調査の様子

したがって、上層は徳川氏時代、下層は武田氏時代の遺構ではないかと考えられる。このように遺構面が二面確認された場所は、二の曲輪東内馬出と二の曲輪東馬出である。このうち二の曲輪東内馬出の堀の調査では、薬研堀(やげんぼり)から箱堀(はこぼり)に改修した痕跡を確認することができた。これは、武田氏の薬研堀を徳川氏が箱堀に改修したと捉えることができるのではないかと思われる。曲輪内の土塁も、土塁を崩し、再構築した痕跡を見ることができた。

諏訪原城、ニの曲輪東内馬出、堀、断面
二の曲輪東内馬出の堀の断面。徳川氏による改修痕が確認された

二の曲輪東馬出では、曲輪の整地面が二面確認されている。本曲輪のような焼土を挟んでの遺構面ではないが、礎石が検出されている灰白色の整地面とその下の鉄砲玉と用途不明の銅製品の出土品が検出された黒色土の整地面が確認された。その他の二の曲輪(北側)、二の曲輪北馬出、二の曲輪中馬出、大手南外堀、大手南北外堀では、遺構面が一面のみとなっており、下層に遺構面を確認することはできなかった。

諏訪原城、遺構
二の曲輪東馬出の発掘調査の様子

発掘調査が行われる以前は、武田氏時代の諏訪原城の城域は、大手曲輪以外を除いた広範囲だと考えられていた。しかし、二の曲輪南端部が未発掘ではあるとはいえ、武田氏時代の城域は、本曲輪及び二の曲輪東内馬出、二の曲輪東馬出の狭い範囲であった可能性が高いと考えられる。

城跡整備の現状

諏訪原城跡では、発掘調査や縄張調査などの成果を基に、2013年度から二の曲輪北馬出周辺より史跡整備事業を実施している。特筆すべき点は、二の曲輪北馬出の城門を復元したこと。この発掘調査では、門の礎石や戸当たり石、蹴放ちの石列など門の規模を推定することができるデータを得ることができた。

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二の曲輪北馬出の発掘では門礎石の配置などを確認できた

今後は、門周辺の土塁などを順次整備していく予定。少しずつではあるが、戦国時代の諏訪原城の姿を見学者の方に知っていただけるよう、整備を進めていく方針である。

諏訪原城、二の曲輪北馬出、薬医門
2017年に復元された二の曲輪北馬出の薬医門


諏訪原城(すわはら・じょう/静岡県島田市)
諏訪原城は、武田勝頼により天正元年(1573)に遠江侵攻撃の拠点とするために、牧之原台地に築かれた城。天正3年(1575)、徳川家康によって攻め落とされたのち、牧野城と改名され、城番を置いて駿河に対する最前線拠点となった。また、あわせて1年間にわたり、旧駿河国守今川氏真を置いて駿河進攻の旗印とされている。天正10年(1582)、武田氏が滅亡したことにより牧野城の軍事的役割を終え、徳川家康が関東に移った天正18年(1590)頃には廃城になったと考えられている。

執筆/萩原佳保里(島田市教育委員会)

写真提供/島田市教育委員会

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