2018/09/14
【関ヶ原の舞台をゆく⑤】日本中で行なわれた「関ヶ原の戦い」~北と南の関ヶ原はどう終結したのか~
豊臣秀吉死後の政権をめぐり、全国の大名が東軍と西軍のわかれて争った関ヶ原の戦い。第4回までに9月15日に行われた本戦やこれにつながる一連の戦いを解説してきたが、実は本戦に参加しなかった地方の大名たちも東軍と西軍にわかれて争っていたのだ。第5回ではそんな地方で行われた戦いを紹介する。
北の関ヶ原・長谷堂城の戦いは現在の山形県山形市を中心に、南の関ヶ原・石垣原の戦いは現在の大分県別府市を中心に繰り広げられた
北の関ヶ原、長谷堂城の戦い
「関ヶ原の戦い」の戦場は、ひとつではなかった。美濃(岐阜県)関ヶ原での決戦を中心としながらも、その舞台裏では全国各地で両軍の武将たちが、自らの命運をかけた戦いを繰り広げていたのである。
例えば、美濃から遠く離れた東北では、西軍・上杉景勝(うえすぎかげかつ)と東軍・最上義光(もがみよしあき)、伊達政宗(だてまさむね)が激突した。そのきっかけは、五大老の中で「反・徳川」の色を明確にしていた景勝が、石田三成の挙兵と連動する形で、西軍の一角として東北地方の攻略に乗り出したためである。
長谷堂城で激突した上杉景勝・直江兼続主従(左)と最上義光(右)
上杉軍は本拠地・会津を発し、まず東軍についた最上義光の領地である出羽(山形県)へ攻め入った。9月9日から10月の初旬まで1か月近くにも及ぶ「慶長出羽合戦」(けいちょうでわかっせん)の幕開けである。
上杉軍の大将は景勝の重臣・直江兼続(なおえかねつぐ)で、2万5000もの大軍を率いていた。兼続は9月12日に畑谷城を落城させ、15日に長谷堂(はせどう)城の攻略にかかった。これに対し、最上義光の軍勢は8000人。不利と見た義光は、米沢の伊達政宗(東軍)に救援を要請。政宗はこれを受けて援軍を派遣した。
長谷堂城での攻防を描いた屏風絵。画面左側の上部には、指揮を執る直江兼続が描かれている(『長谷堂合戦図屏風(複製)』/最上義光歴史館蔵)
長谷堂城には1000程度の守備兵しかいなかったが、この城は深田に囲まれた天然の要害であり、攻め手は足をとられて進撃もままならなかった。城将・志村光安(しむらみつやす)による夜襲にも苦しめられ、さすがの直江兼続も攻めあぐねた。
長谷堂城跡遠景。城域は城跡公園となっており、山麓には堀が復元されている
そうこうするうちに、9月29日になって関ヶ原で西軍が敗戦した知らせが届き、最上軍の士気が大いに上がった。兼続はそれ以上の戦いを諦め、会津へ撤退。追撃する最上軍に対し、兼続は反転して大打撃を与える。義光の兜にも銃弾が当たるなど大混戦となったが、結果的には「北の関ヶ原」と呼ばれる慶長出羽合戦も、西軍(上杉軍)の敗北で終わった。
南の関ヶ原、石垣原の戦い
同時期、南の九州でも両軍は激突した。九州の諸大名の中で、最も主だった合戦が豊後(大分県)の杵築城(きつきじょう)をめぐる戦いだ。9月9日から10日にかけ、東軍の支配下にあった杵築城を攻めようと、西軍の大友義統(おおともよしむね)が広島城(広島県)を発して九州に上陸する。これに対し、東軍に与した黒田如水(じょすい)(=官兵衛)は中津城(大分県)から出陣し、杵築城の救援に向かった。
石垣原の戦いで激突した黒田官兵衛(左/東京大学史料編纂所蔵模写)と大友義統(右/東京都中央図書館蔵)
かくして9月13日、両軍は城の南西・石垣原(いしがきばる)で激突した。しかし、西軍の大友勢2000に対し、東軍の黒田勢は1万。序盤は善戦し、東軍に大打撃を与えた大友軍だが、黒田如水の巧みな采配がものを言い、東軍の大勝となった。勝利した黒田如水は富来城・安岐城・日隈城など豊後の西軍諸城を10月までかかって攻め取り、領土拡大に野心を見せた。
黒田如水の救援により杵築城は落城を免れた。関ヶ原の戦い後、一国一城令により一度破却されるが、木付(杵築)藩が成立するとその居城となる
さらに同時期、九州では領国の熊本城を発した加藤清正が、宇土(うと)城や八代(やつしろ)城など肥後(熊本県)の西軍諸城を攻め取るなど、東軍方として活躍していた。
西軍の有力武将・小西行長の居城だった宇土城は戦後、加藤清正によって改修されたため、行長時代の遺構はほとんど残っていない
九州勢の西軍で最後まで粘っていたのは、前回で解説した近江・大津城の戦いに参戦した立花宗茂(たちばな むねしげ)である。宗茂は大坂城の失陥によって柳川城(福岡県)へ帰ったが、その後に黒田如水、加藤清正、鍋島直茂(なべしまなおしげ)らの侵攻を受ける。
宗茂は、これを城外の野戦で辛くも食い止め奮闘したが、すでに関ヶ原における西軍敗戦から1か月以上も経ち、もはや形勢逆転は不可能な情勢だった。ついに11月3日、加藤清正の説得を受けて宗茂は開城に応じ、「南の関ヶ原」も終幕した。
立花宗茂は関ヶ原の戦い後に改易されるが、大坂の陣の武功で旧領を回復した。写真は、柳川城の水堀をめぐる川下りの様子(柳川市観光課提供)
ここに紹介した合戦は、全国で行なわれた「もうひとつの関ヶ原」の、ごく一部に過ぎない。本戦「関ヶ原の戦い」は9月15日だけで決着したが、その影響は日本各地に飛び火。武将たちは己だけでなく大勢の家臣や一族の命運を賭け、必死に戦っていたのである。
徳川の天下、新時代の幕開け
この全国規模の合戦で、東軍の総帥として指揮をとった徳川家康は、すべての大名を統べる最大の勝利者にもなった。そして戦後、豊臣家に代行する形で諸大名に対する加増・減封・改易など、処分の一切を取りしきったのである。
五大老の扱いを見れば、その意図が明白に分かる。東軍の代表として北陸戦線に重きを成した前田利長は、80万石から約120万石に加増され、日本最大の藩・加賀藩(石川県)が成立する。その他、東軍に味方した武将の多くは、概ねその功績に応じて領地を加増されている。
一方、反・徳川派の首魁であった上杉景勝、西軍の総帥に推された毛利輝元は、ともに120万石あった所領を召し上げられ、移封を命じられる。上杉は米沢30万石、毛利は長州37万石にそれぞれ減封され、力を大きく削がれたのだ。そして石田三成・小西行長ら、西軍首脳陣は所領没収(改易)のうえ斬首され、反・徳川の勢力の芽は潰える。
このようにして、全国の諸大名は徳川家の下につく体制が着々と整えられていく。そして名実ともに天下人となった徳川家康は、3年後の慶長8年(1603)に「征夷大将軍」に就任。江戸城(東京都)を拠点とした徳川将軍家が全国の大名(藩)を統べる「幕藩体制」の頂点に立った。
征夷大将軍となり江戸幕府を開いた家康は、翌年、息子秀忠に将軍職を譲り、天下は徳川家が治めることを全国にアピールした
以後、江戸城の徳川家(幕府)を中心とした江戸時代は260年以上も続く。「大坂の陣」(1614~1615年)や「島原の乱」(1637年)などの例外はあったが、いわゆる乱世は終わり、泰平の世が到来したのである。関ヶ原の戦いは、それを決定づける壮大な一戦であったといえよう。
<関ヶ原の舞台をゆく・初回はコチラ>
決戦当日は、東軍の圧勝で呆気なく終わったともいわれる「関ヶ原の戦い」だが、そこに至るまでは、日本全国を舞台とした長い抗争のドラマがあった。そもそも、なぜ合戦は起こったのか。
執筆者/上永 哲矢(うえなが てつや)
神奈川県出身。歴史ライター、紀行作家。日本史および三国志、旅をテーマとして雑誌・書籍・ウェブに寄稿。歴史取材の傍ら、日本各地の城や温泉に立ち寄ることがライフワーク。著書に『高野山 その地に眠る偉人たち』(三栄書房)『三国志 その終わりと始まり』(三栄書房)『ひなびた温泉パラダイス』(山と溪谷社)がある。
写真提供/クレジットのないものはかみゆ歴史編集部