2018/08/29
【関ヶ原の舞台をゆく①】関ヶ原の戦いに至るまで~2年前から始まっていた関ヶ原・前哨戦~
全国の大名が西軍と東軍に別れて争った「関ヶ原の戦い」。この戦いに勝利した徳川家康が後に江戸幕府を開いたことは有名だが、実は戦いが関ヶ原(岐阜県)だけではなく、全国に波及していたことや多数の攻城戦が行われていたことはあまり知られていない。「関ヶ原の舞台をゆく」では、関ヶ原の戦いの発端から決着や全国で起きた戦いを解説していく。今回は、関ヶ原の戦いが起こった要因と、戦国武将たちの関係をわかりやすく紐解きます!
大坂に天下一の城を築いた豊臣秀吉。彼の死が天下分け目の戦いの発端となった
関ヶ原の戦いが起きた最大の要因とは?
天下分け目の合戦として、あまりに有名な「関ヶ原の戦い」。時に慶長5年(1600)の9月15日、日本全国から集まった20万人近い軍勢が美濃国(現在の岐阜県)関ヶ原で雌雄を決した戦いである。
徳川家康を大将とする「東軍」と、石田三成(いしだみつなり)を旗頭とする反徳川勢力の「西軍」とが激突した決戦は、わずか半日で決着。「東軍」が勝利した。この合戦を制した家康が覇権を握り、約270年に及ぶ江戸時代への幕を開く契機となった。それまで100年近く続いた戦乱の時代から泰平の世へ変わる日本史の行方を、大きく決定づける合戦であったのだ。
決戦当日は、東軍の圧勝で呆気なく終わったともいわれる「関ヶ原の戦い」だが、そこに至るまでは、日本全国を舞台とした長い抗争のドラマがあった。
そもそも、なぜ合戦は起こったのか。それは合戦の2年前にあたる慶長3年(1598)の秋、天下人の豊臣秀吉が、京都の伏見城(京都府)で死去したためである。当然、その跡を継ぐのは彼の息子、豊臣秀頼(ひでより)と決まっていた。だが秀頼はまだ6歳の幼子で、政治などできない。そこで秀頼の配下(豊臣政権)に属する家臣団が秀頼をサポートしながら、国政を動かしていくことになった。
秀吉死去〜関ヶ原開戦直前までの人物相関図
前田利家の死で、内部分裂した豊臣政権
豊臣政権の家臣団には、「五大老」と呼ばれる5名の実力者がいた。徳川家康・前田利家(まえだとしいえ)・上杉景勝(うえすぎかげかつ)・毛利輝元(もうりてるもと)・宇喜多秀家(うきたひでいえ)の5大名である。彼らが一致団結し、豊臣秀頼をサポートしていけば何の問題もなかったが、事はそう簡単に運ばなかった。現在も総理大臣が退陣すれば、すぐに次の総理が選ばれるのと同様、人々は秀吉に代わる次代のリーダーを必要とした。そして、その座をめぐっての静かな抗争が、秀吉の死の直後からはじまったのである。
次代のリーダーの筆頭候補と目されていたのが、徳川家康だった。家康は本拠地の江戸を含む関東地方の多くを治め、その石高は全国の大名で最大の250万石。実力は群を抜いていた。秀吉の存命中から抜群の信任を得ており、秀吉の死後も京都・伏見城に留まって政務を執った。当然、彼自身も次の時代のリーダーを自負していたのだろう。いつそうなっても良いように、着々と足場固めを行なっていった。
【徳川家康】五大老の一人。三河や遠江などを治めていた大名だったが、関東の北条家が滅ぶと秀吉に関東への移封を命じられる
そしてナンバー2は、加賀(石川県)100万石の前田利家だった。石高こそ家康に及ばないものの、生前の秀吉とは長く苦楽を共にした仲で、豊臣家臣団でも人望はトップクラスだった。秀吉死後、利家は大坂城(大阪府)を拠点とする秀頼の養育係を任された。家康と違い、利家は譜代の家臣として豊臣家をまとめていこうと考えていた。
徳川家康の伏見城(京都)、豊臣秀頼と前田利家の大坂城(大阪)。秀吉亡きあとの豊臣政権は、京都・大坂の二頭体制で動きはじめたのである。
【前田利家】五大老の一人。織田信長に仕えていた頃から秀吉とは家族ぐるみのつきあいがあり、彼の天下統一事業に協力し、北陸に100万石の領地をもつ大大名となる
ところが、その翌年の春、前田利家が死去してしまう。これで家康に唯一、単独で対抗できる存在はいなくなった。家康は秀吉死後の京都で、諸大名との婚姻政策を独断で行うなど、豊臣政権下にありつつも着実に自身の権力増大をはかっていった。
亡き前田利家の遺志を継ごうとしたのが、近江(滋賀県)佐和山19万石の城主・石田三成だった。長く豊臣政権を支えた「五奉行」の中心として活躍する人物で、その影響力は小さくなかった。三成は利家の跡を継いだ前田利長(としなが)(利家の子)以下、上杉景勝・毛利輝元・宇喜多秀家の四大老に協力を仰ぎ、家康の専横に対抗する。
【石田三成】五奉行の一人。豊臣政権の官僚として活躍し、戦では主に兵糧調達などの後方支援を担当していた
だが、一方で三成は福島正則(ふくしままさのり)や黒田長政(くろだながまさ)ら、武断派と呼ばれる大名たちと折り合いが悪かった。やがて、彼らの怒りを買って屋敷を襲撃されるなどの武力抗争を引き起こしてしまう。前田利家が亡くなって、抑えの利かなくなった豊臣政権は、早くも内部分裂を起こしたのである。
【加藤清正(かとうきよまさ)】武断派の一人。関ヶ原の戦いが起きた頃は領国の肥後におり、九州の西軍勢力と戦った
【福島正則】武断派の一人。清正同様、秀吉の親戚にあたる。賤ヶ岳の戦いでは一番槍の大手柄をあげ、5000石を拝領。その後も秀吉のもとで武功を多数立て、尾張24万石の大名となる
【黒田長政】武断派の一人。秀吉の軍師・黒田官兵衛(かんべえ)の息子。父と共に秀吉の天下統一事業で活躍し、豊前に12万石の領地を与えられる
この騒動を鎮めたのは、誰あろう家康だった。石田三成は家康の仲介によって一命を救われたが、騒動を起こした罪で奉行職を解任されて佐和山城(滋賀県)に蟄居を命じられる。こうして政権の中心から外されてしまった。
石田三成の居城・佐和山城は琵琶湖に面した要地に築かれており、「三成には過ぎたるもの」と謳われる名城だった
続いて、家康は前田利長に謀反の兆しがあるとの報を受け、征伐の構えを見せる。怯えた利長は母親を人質に差し出し、家康に許しを乞い、本拠地の加賀から動けなくなった。家康は、このようにして実力のある大名を屈服させにかかったのだ。そして次に目をつけたのが、会津(福島県)120万石の上杉景勝であった。
徳川家康が上杉征伐に出た隙を突き、石田三成が挙兵!
石田三成や前田利長が失脚し、家康の政治的影響力が強まると、その家康とよしみを通じる大名が日増しに多くなった。しかし、五大老の一人・上杉景勝だけは家康に従わなかった。景勝は領国の会津に引きあげ、築城や武備に力を入れはじめる。家康は豊臣家の名を使い、上杉に「謀反の企みあり」と疑いをかけたうえで上洛要求を行なったが、上杉は宰相の直江兼続(なおえかねつぐ)が「直江状」を送りつけるなどして家康の専横を糾弾した。怒った家康は、ついに上杉討伐軍を組織する。
【上杉景勝】五大老の一人。軍神と恐れられた上杉謙信(けんしん)の養子で、もう一人の養子・上杉景虎との家督争いの末、上杉家の当主となる(米沢市上杉博物館提供)
とはいえ、家康は冷静に事を運んだ。大坂城で豊臣秀頼に謁見して軍資金や兵糧を得たうえで、周到な根回しを行なっての出陣だった。こうして大義名分も得て「豊臣軍」の総大将となった家康は上杉征伐に出陣。福島正則・細川忠興(ほそかわただおき)・黒田長政など多くの大名を従えて会津へ向かったのである。時に慶長5年(1600)6月16日、関ヶ原決戦の3か月前だった。
それから1か月後の7月17日、謹慎していた石田三成が大坂で、家康を糾弾する書状を各大名へ出し、「家康打倒」の兵を挙げた。三成は毛利輝元を総大将に担ぎ、宇喜多秀家など反・家康派の諸大名の協力を得て決起したのだ。
【毛利輝元】五大老の一人。謀神と謳われた毛利元就の孫にあたる。父の急死で幼い頃に家督を継いだため、叔父である吉川元春(きっかわもとはる)、小早川隆景(こばやかわたかかげ)の補佐を受けながら領国支配を進めた
【宇喜多秀家】五大老の一人。秀吉の養女・豪姫(ごうひめ)(実父は前田利家)を妻としており、豊臣家の一員として扱われ、備前や美作などに57万石の領地を与えられた(岡山城所蔵)
家康がそれを知ったのは7月24日、関東の下野小山(栃木県小山市)に陣を張っていた時だった。さすがの家康もこの知らせには狼狽したが、すぐに冷静になり、事を進めた。家康は上杉討伐を中止し、軍を反転させるや、目的を「石田三成討伐」へと切り替えた。家康に従軍して関東へ来ていた諸将の多くは、三成よりも家康に勝ち目があると踏み、それに従って西へと踵を返す。
かくして、徳川家康方による「東軍」、石田三成方による「西軍」が結成され、両軍激突に向けて動き出したのであった。
<次回>
家康不在の隙を突くように、秀吉股肱の家臣・石田三成が挙兵した。天下分け目の戦いは一体どちらが勝利するのか−?
執筆/上永 哲矢(うえなが てつや)
神奈川県出身。歴史ライター、紀行作家。日本史および三国志、旅をテーマとして雑誌・書籍・ウェブに寄稿。歴史取材の傍ら、日本各地の城や温泉に立ち寄ることが至上の喜び。著書に『高野山 その地に眠る偉人たち』(三栄書房)『三国志 その終わりと始まり』(三栄書房)『ひなびた温泉パラダイス』(山と溪谷社)がある。
肖像画/クレジットのないものは東京大学史料編纂所提供(模写)