2018/09/07
【関ヶ原の舞台をゆく②】関ヶ原の戦い・決戦~徳川と豊臣の運命を賭けた戦い~
天下人・豊臣秀吉亡き後、日本は実力者・徳川家康と家康の専横に反発する勢力に割れていた。自分に従わない上杉景勝を討伐するため、家康は遠征を開始する。そんな、家康不在の隙を突くように、秀吉股肱の家臣・石田三成が挙兵した。天下分け目の戦いは一体どちらが勝利するのか−−?
『関ヶ原合戦図屏風』(行田市郷土博物館所蔵)。徳川家康の天下を決定的にした関ヶ原の戦いは、屏風絵の題材として好まれた
美濃・大垣城を舞台とした前哨戦
慶長5年(1600)7月、大坂で石田三成が「反徳川」の旗を掲げて挙兵。それを受けた徳川家康は、会津(福島県)の上杉討伐を取りやめ、石田三成との戦いに目的を切り替えた。家康はじめ、東軍諸隊は小山まで進んでいたが、ここで軍議(小山評定)を開いて今後の方針を決めた後、西へ向けて続々と引き返しはじめた。
家康は、まず自らは江戸城に留まり、味方の諸大名には東海道を西へ進ませておき、尾張(愛知県)清州城で待機させる。その一方で、息子の徳川秀忠に総勢3万8000の軍勢を預け、中山道を進ませて信濃(長野県)周辺の攻略に向かわせた。東海道・中山道の二方面作戦である。
小山評定から岐阜城攻めまでの東軍の動き
一方の西軍は、総大将の毛利輝元が大坂城に詰めて豊臣秀頼を守護した。石田三成たち主力軍は美濃(岐阜県)まで進出し、大垣城を本拠地とした。三成の居城・佐和山城がある近江(滋賀県)や豊臣家の本営・大坂城(大阪府)へ敵勢を行かせないよう防衛線を張ったのである。
毛利輝元出陣から石田三成が大垣城に入城するまでの西軍の動き。西軍は畿内や伊勢・美濃の城を押さえて東軍に備えた
こうして両軍の最前線は岐阜城(岐阜県)、清州城(愛知県)を拠点とする格好となり、美濃・尾張の国境で睨み合いが続いた。しかし、東軍は8月23日に西軍の岐阜城を落城させ、美濃へ侵攻。西軍は石田三成が当初から大本営としていた大垣城に籠城し、東軍の侵攻を阻もうとした。
現在の大垣城は公園に櫓が2つ復元されているに過ぎず、知名度も高くないが、当時は東西をつなぐ街道沿いに位置する西美濃の要衝にあって、非常に重視された城だった。天守を備え、水堀を幾重にもめぐらせた堅城で、敷地にして現在の3倍以上、櫓の数も10を数える大規模な要塞だったという。
石田三成が拠点としていた大垣城。三成は当初、大垣城での籠城戦を想定していたが、重要拠点・松尾山に小早川秀秋が入ったことによりそのもくろみは崩れ去った
ここであれば東から来る徳川軍を足止めし、士気が下がったところで反撃すれば大打撃を与えることもできる。石田三成はそう考えたのだろう。実際、東軍主力は大垣城攻めにかかりきりで、それより西へ進めずにいた。
大垣城での攻防中、予期せぬ知らせが!
攻防が続く9月1日、江戸城にいた徳川家康が3万の大軍を率いて出陣する。家康は信濃攻略中の徳川秀忠軍3万8千にも、急ぎ美濃へ進軍するよう使者を出した。それから10日あまり経った9月13日、家康が岐阜に到着した。
しかし、秀忠の軍勢は来なかった。西軍・真田昌幸の拠点である上田城(長野県)の攻略に手間取っていたこと、また家康が出した使者が、川の増水などの影響で遅れたことが主な原因だった。結局、秀忠軍は2日後の関ヶ原決戦にも加われずに終わる。家康はやむを得ず、自軍のみでの進軍を決断。翌14日の夜明けに長良川を渡り、西美濃の赤坂に着陣。西軍主力が籠城する大垣城攻撃を家康は自ら指揮する形となった。
秀忠軍が足止めされた上田城。真田昌幸は城内に秀忠軍を誘い込み、鉄砲や弓矢で狙い撃ちにしたという
徳川家康が加わっても、なお西軍有利の情勢は変わらなかったが、同じ9月14日、「関ヶ原の南西にある松尾山城に小早川秀秋が入城した」との知らせが、大垣城にもたらされた。それを聞いた石田三成は焦った。
小早川秀秋といえば、最初から西軍の一員と見なされることが多いが、実はこの日までその去就を明らかにしていなかった。しかも1万5000の大軍(一説には8000)を連れている。その小早川秀秋が松尾山城に布陣したというのだ。
松尾山城は非常に堅固な山城で、西軍が今回の旗揚げに際して整備や補修を行なっていた一大拠点だった。山上からは関ヶ原がよく見渡せるし、そこに布陣すれば京や大坂へ向かう軍勢を食い止められる要衝でもあった。西軍首脳陣は大坂城から毛利輝元を呼び、布陣させての長期戦プランも視野に入れていたという。
石田三成としては、大垣城より西に東軍の拠点が造られてしまうことは避けたいという思いがあった。大坂・京との連携が絶たれるからだ。そこで、いち早く大垣城を出て関ヶ原へ急行し、松尾山城の小早川秀秋を説得して西軍に取り込もうとした。関ヶ原には、すでに9月3日から大谷吉継の軍勢が待機し、松尾山城の北側に布陣していたから、急ぎ合流を図ったのである。
かくして石田三成以下、西軍は9月14日の夜、7500の守備軍を残して大垣城を出ると、西の「関ヶ原」へ向かった。三成が籠城戦を捨てた理由には諸説あり、「東軍は近江に侵攻して佐和山城を落とし、大坂へ向かう」という報が入ったためとする説もある。
いずれにしても、西軍は関ヶ原に東軍を誘い出し、有利な陣形を敷いて一網打尽にしようとしたが、小早川秀秋の予期せぬ行動で目算が狂った。関ヶ原への移動のタイミングが、想定していたよりも早まり、準備不足のまま移動することになってしまったようである。
そして東軍も、この西軍の動きを知り、赤坂の陣を引き払って関ヶ原へと軍を進める。それまで大垣城の攻防で膠着状態にあった両軍は、いよいよ激戦に向け、静かに気分を高めていったのであろう。関ヶ原への移動は夜半のうちに完了し、両軍は9月15日の夜明けまでに布陣を終えた。
9月14日夜、西軍は関ヶ原に鶴翼の陣を敷き、東軍を待ち受けた
ついに決戦!城を出て関ヶ原での激突へ
9月15日、関ヶ原に布陣を終えた東西両軍の決戦は、通説によれば午前8時ごろからはじまった。戦場には早朝から霧が立ちこめ、それが晴れかかったタイミングで両軍は鉄砲の撃ち合いを開始。総兵力は東軍が約9万(7万5000との解釈もあり)、西軍が約8万といわれる。
最初に激突したのは、東軍・福島正則の部隊と西軍・宇喜多秀家の部隊だった。そして、左翼に位置する西軍の旗頭・石田三成の隊には、黒田長政隊と細川忠興隊が攻めかかる。石田隊は島左近が先陣となり、野戦陣地で敵勢を防ぎながら必死の交戦を見せた。三成は笹尾山の山裾に木柵を並べ、空堀をつくって敵を迎え撃った。
『関ヶ原合戦図屏風』に描かれた開戦の様子(行田市郷土博物館所蔵)。福島隊(白地に青い桐紋の旗印)と、宇喜多隊(青地に「兒」と書かれた旗印)が激戦を繰り広げている
続いて小西行長、大谷吉継の部隊もそれぞれ前面に迫る敵勢を迎え、一進一退の攻防を繰り広げた。この時点で西軍の中で積極的に戦っていたのは石田三成・宇喜多秀家・大谷吉継・小西行長の合計3万人強。総兵力の半数にも満たなかった。それでも諸隊は善戦し、数で勝る東軍を苦戦させた。開戦から2時間を過ぎた午前10時ごろ、三成は狼煙を上げさせる。参戦していない武将に加勢を促したのだ。
裏切り・傍観が決した、兵力差と勝敗
まず、石田三成が頼りにしていたのは、東軍の背後にそびえる南宮山に布陣する毛利秀元や吉川広家の軍勢約3万だった。彼らが山を駆け下り、後方を脅かせば東軍を挟み撃ちにできる。しかし、毛利軍3万は動かなかった。
最前列の吉川広家が東軍に内通し、後続部隊を足止めしたためである。山上の毛利秀元は関ヶ原の戦況も把握できず、合戦終了まで山を下りないままに終わった。毛利秀元は度々訪れる催促の使者に、「いま兵に弁当を食わせている」と言い訳したという(いわゆる「宰相殿の空弁当」)。また、ほぼ戦場中央に位置していた島津義弘の部隊も積極的に戦おうとせず、その場を動かずにいた。
最大の決め手は、松尾山城に陣取っていた小早川秀秋が東軍に加勢する形で下山し、西軍・大谷吉継の部隊に側面から襲いかかったことである。この小早川秀秋の「寝返り」の時刻は正午ごろとされるが、近年ではもっと早い、開戦から間もない段階であったとする史料(東軍側の武将の書状)もある。
小早川隊は大軍であり、かたや大谷隊は1500人の寡兵。吉継の指揮で奮戦するも、あえなく大谷隊は壊滅する。そして、大谷隊を突破した東軍諸隊は宇喜多隊、小西隊を突き崩しにかかる。
自害する大谷吉継(『関ヶ原合戦図屏風』行田市郷土資料館所蔵)。10倍以上の軍勢に攻められた大谷隊は奮戦するも壊滅し、吉継も戦場で自刃した
朝から戦い続けていた西軍諸隊は前方だけでなく横からも攻撃を受け、次々と壊滅していく。やがては石田隊も総崩れとなり、三成は戦場から離脱した。残る島津隊は、戦場を脱するためにようやく動き出したが、背後は険しい山道のために敵中突破を試み、家康本陣の前をかすめ、わずか50名ばかりに兵力を減らしつつも戦場を脱出した。
島津隊の退却では大将の島津義弘を逃がすため、義弘の甥・豊久を含む多くの家臣が犠牲となった。豊久が戦死したとされる場所には石碑が残っている
当初、東軍9万対西軍8万と、やや拮抗していた兵力も、こうした諸隊の裏切りや傍観が相次いだ結果、東軍12万対西軍3万という圧倒的な差がつき、これが勝敗に直結した。数時間に及んだ決戦は、東軍すなわち徳川家康の圧勝で幕を下ろしたのである。
黒田長政・細田忠興の猛攻により敗走する石田隊(『関ヶ原合戦図屏風』行田市郷土資料館所蔵)。敗れた三成は近江に逃れるも、7日後に捕縛され斬首された
<次回>
東軍勝利で幕を閉じた関ヶ原の戦い。開戦や小早川秀秋の寝返りなど決戦の重要シーンに関連する史跡をめぐりながら、武将たちが見ていた戦場に想いを馳せる。
執筆/上永 哲矢(うえなが てつや)
神奈川県出身。歴史ライター、紀行作家。日本史および三国志、旅をテーマとして雑誌・書籍・ウェブに寄稿。歴史取材の傍ら、日本各地の城や温泉に立ち寄ることが至上の喜び。著書に『高野山 その地に眠る偉人たち』(三栄書房)『三国志 その終わりと始まり』(三栄書房)『ひなびた温泉パラダイス』(山と溪谷社)がある。
写真提供/クレジットのないものはかみゆ歴史編集部