【関ヶ原の舞台をゆく④】本戦と連動して発生した攻城戦~決戦にも強い影響を及ぼした名城三合戦~

徳川家康と石田三成が激突した関ヶ原の戦い。現在の岐阜県関ヶ原町で起こった野戦が一般的には有名だが、実はこの本戦と連動するように全国各地で多数の攻城戦が繰り広げられていた。第4回では本戦の結果に影響を与えた攻城戦や、本戦で東軍が勝利した結果起こった攻城戦を紹介していこう。




関ヶ原の戦い
関ヶ原の戦い本戦の前後に起こった攻城戦マップ

徳川の主力軍を翻弄した上田城主・真田昌幸

これまで、3回にわたって「関ヶ原の戦い」を紹介してきたが、今回は、本戦の関ヶ原と連動する形で起こった全国での東西両軍の戦いを紹介したいと思う。

慶長5年(1600)9月15日、東軍9万・西軍8万による決戦は、その1日で決着がつき、東軍の大勝利に終わった。しかし、この両軍による戦いは各地に波及。全国の武将たちの拠点、つまり「城」を舞台に激突していた。

本戦でも、関ヶ原決戦の前日まで徳川家康と石田三成の両軍が大垣城をめぐって争っていたのと同様、全国の武将たちが「城の争奪戦」を繰り広げていたのである。

その中で、最もよく知られるのは信濃国の上田城(長野県)での徳川軍対真田軍の攻防「上田城の戦い」だろう。家康は関ヶ原に向かう前、息子の秀忠に徳川の本軍38000人を率いさせ、宇都宮から中山道を西へ進ませた。そして自らは後詰として東海道を進むという2方面作戦を展開したのだ。

このとき、秀忠は家康に信濃攻略を命じられている。まず信濃を確保すれば、美濃から上方への侵攻に有利となるからだ。その標的となったのが東信地方の要地・上田平(だいら)に建つ上田城だった。上田城主・真田昌幸は当初、家康に従っていたが、以前からの信濃支配をめぐる家康との確執などから西軍に寝返ったため、これを落とす必要があった。

上田城、徳川秀忠、真田信之、仙石氏
秀忠が落とせなかった上田城。関ヶ原の戦い後、上田は東軍に着いた昌幸の嫡子・信之が領するが、上田城は家康によって破壊されている。現在残る遺構は江戸時代に城主となった仙石氏によるものだ

秀忠は9月5日(関ヶ原決戦の10日前)から4日間かけて上田城を攻撃したが、わずか城兵3000に過ぎない上田城は落ちる気配がなかった。城主・真田昌幸やその息子・信繫(幸村)による、巧みな戦術に不利を強いられたためである。そこへ、8日になって家康から「急ぎ、美濃赤坂へ向かえ」との伝令が届く。伝令は8月末に江戸を出たのだが、川の増水で到着が遅れに遅れていたのだ。

上田城、徳川秀忠、真田昌幸、真田信繁
上田城で秀忠軍を迎え撃つ昌幸と信繁(上田市立博物館蔵)

慌てた秀忠は、上田城攻撃を中止して西へ向かうが、結局関ヶ原本戦に間に合わなかった。結果的に関ヶ原で東軍が勝利したため事なきを得たが、もし東軍が敗れていたなら、3万8000もの秀忠軍の不在は大きな打撃になっただろう。

かたや、秀忠軍を退けた真田昌幸は大いに武名を高めたが、本戦で西軍が敗北したことにより、戦後に所領の上田は没収。信繁とともに紀州・九度山(くどやま)に蟄居(ちっきょ)処分となってしまった。

九度山町、善名称院、真田庵、屋敷跡
九度山町の善名称院(真田庵)。昌幸と信繁が暮らした屋敷跡に建てられている

西軍の大軍を足止めした大津城主・京極高次

さて、秀忠が上田城攻略にあたっていた最中の9月7日、関ヶ原の南西、琵琶湖を挟んだ向こう側にある大津城(滋賀県)でも、壮絶な攻防があった。

大津城、関ヶ原の戦い、廃城
大津城は関ヶ原の戦いの翌年に廃城となりその面影はほとんど残っていないが、天守などの建物は彦根城の建物に転用されたといわれている

琵琶湖の畔にある大津城は水運の城で、美濃や越前方面から運ばれてくる物資の集積地だった。城主・京極高次(きょうごくたかつぐ)は当初、西軍の一員として越前方面の攻略に従っていたが、突如として家康の要求に応じて東軍に加勢。大津城に立て籠もって西軍の進路に立ちはだかり、その連携を断とうとした。

その時、京都方面にいたのが西軍・毛利元康だった。西軍の盟主・毛利輝元(もうりてるもと)の叔父でもある元康(もとやす)は、筑前柳川城(福岡県)の城主・立花宗茂(たちばなむねしげ)とともに、総勢1万5000の大軍で大津城の攻撃にかかる。

対する京極軍3000は粘り強く籠城を続け、攻防は7日に及んだ。9月13日(決戦2日前)から、西軍は長等山(ながらやま)の山上から大砲で大津城を砲撃にかかり、城内の建造物を破壊した。その轟音は京都の街まで鳴り響いたという。

大津城は、元々守りが薄い城だったので、この砲撃によって城内は混乱。城主・京極高次は翌14日に降伏開城し、15日には西軍が入城する。しかし、この大津城の戦いの意義は大きかった。関ヶ原決戦(本戦)は、まさに15日の早朝から行なわれ、毛利元康・立花宗茂ら1万5000の軍勢は参戦できなかったのだ。

もし、大津城がもう少し早く陥落し、この1万5000人が西軍に加勢していれば決戦に少なからぬ影響を与えていただろう。降伏したとはいえ、京極高次は戦後、家康から西軍足止めの功を賞され、若狭小浜8万石に加増されている。

敗戦後に落城した三成の居城・佐和山城

その後、関ヶ原の西軍敗報を受け、毛利元康・立花宗茂らは大坂城(大阪府)へ引きあげ、西軍盟主として陣取る毛利輝元に徹底抗戦を呼びかけた。しかし、輝元に家康と雌雄を決する覇気はなく、大坂城を退去して東軍に明け渡してしまう。決戦から12日後の9月27日、ついに家康が入城し、西軍の拠点だった大坂城はあっさり東軍の手に落ちた。

毛利輝元、大坂城
毛利輝元が詰めていた大坂城。輝元が家康に対抗する気概を見せていたら、歴史は変わっていたのだろうか?

その10日前、関ヶ原決戦から2日後の9月17日から18日にかけて、石田三成の本拠地・佐和山城(滋賀県)が東軍に攻められ落城していた。佐和山城は関ヶ原の西(現在の彦根市)、まさに目と鼻の先に位置しており、戦勝の余勢を駆って攻撃したのは小早川秀秋(こばやかわひであき)、田中吉政(たなかよしまさ)らであった。

当時の落首に「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」とまでうたわれ、壮大な規模を誇った佐和山城だが、もはや守備兵は2800人ほどに過ぎなかった。城内には三成の父・石田正継(いしだまさつぐ)や兄の正澄(まさずみ)、三成の妻がおり、城兵たちとともに懸命に抗戦したが多勢に無勢。戦死あるいは自刃し、佐和山は落城した。

石田三成、居城、佐和山城、石垣、井伊直政、井伊直孝
三成の居城だった佐和山城の建物や石垣は、関ヶ原の戦い後に家康の腹心である井伊直政と息子の直孝が築いた彦根城の転用材となったため、城跡にはほとんど何も残っていない

その頃、関ヶ原で敗れた城主・石田三成は美濃の山中をさまよっていたが、佐和山城の陥落から数日後に捕らわれ、10月1日に京で処刑される。決戦から半月後のことであった。

石田三成、三条大橋、大徳寺三玄院
斬首された三成の首は、処刑後に三条大橋で晒される。その後、知人に引き取られ大徳寺三玄院に葬られた

以上、本戦の戦況にも強く影響を与えた、あるいは影響を受けた「上田城の戦い」「大津城の戦い」「佐和山城の戦い」を、ごく簡潔ながら紹介した。しかし、これは全国規模で行なわれた「もう一つの関ヶ原」の、ごく一部に過ぎなかった。最終回となる第5回では東北と九州を舞台とし、より大規模な攻防が繰り広げられた「北の関ヶ原」と「南の関ヶ原」の模様を紹介しよう。

<次回>
美濃(岐阜県)関ヶ原での決戦を中心としながらも、舞台裏では全国各地で両軍の武将たちが、自らの命運をかけた戦いを繰り広げていた。北の関ヶ原・長谷堂城の戦い、南の関ヶ原・石垣原の戦いとは?

執筆/上永 哲矢(うえなが てつや)
神奈川県出身。歴史ライター、紀行作家。日本史および三国志、旅をテーマとして雑誌・書籍・ウェブに寄稿。歴史取材の傍ら、日本各地の城や温泉に立ち寄ることがライフワーク。著書に『高野山 その地に眠る偉人たち』(三栄書房)『三国志 その終わりと始まり』(三栄書房)『ひなびた温泉パラダイス』(山と溪谷社)がある。

写真提供/クレジットのないものはかみゆ歴史編集部

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