現存12天守に登閣しよう 【備中松山城】天守が残る唯一の山城

歴史研究家の小和田泰経先生が、現存12天守を一城ずつ解説! 今回は、雲海に浮かぶ美しい姿で知られる備中松山城。備中国(岡山県)と伯耆国(鳥取県)を結ぶ街道の要衝に位置するため、多くの争奪戦が繰り広げられたその歴史とは。



備中三村氏の居城

高梁川、備中松山城
高梁川から望む備中松山城

備中松山城は、その名の通り、備中国に存在した松山城という意味です。松山城とよばれる城は、ほかにも伊予国(愛媛県)や武蔵国(埼玉県・東京都)などにも存在していたことから、区別するため、あえて「備中」の国名を冠してよばれることもあります。ちなみに、備中国は、備前国と美作国をあわせ、ほぼ現在の岡山県に相当します。城は、備中国と伯耆国(鳥取県)を結ぶ街道の要衝に位置しており、そのために歴史上、多くの争奪戦が繰り広げられました。

大松山、石積、備中松山城
大松山に残る石積

城が築かれているのは、高梁川の中流域に屹立する標高約490mの臥牛山一帯です。臥牛山とは、文字通り、牛が臥しているような形から名付けられたもので、厳密にいえば、北から大松山・天神の丸・小松山・前山という4つの部分から構成されていました。このうち、当初から城の中心になっていたのは、標高約470mの大松山で、一帯には古い石積も残されています。

戦国時代の備中国では、安芸の毛利氏と出雲の尼子氏が勢力を拡大させようとしていました。そのようななか、毛利氏と結ぶ三村家親が、尼子氏の属城であった松山城を攻略し、居城とします。そのころの松山城は、大松山が城の中心だったようですが、三村氏が入城したころ、標高約430mの小松山に城の中心が移されました。

備中兵乱

備中松山城、天神、丸直下、堀切
戦国時代の構造を伝える天神の丸直下の堀切

三村家親は、永禄9年(1566)、尼子氏と結ぶ備前国の宇喜多直家に暗殺されてしまいます。やがて宇喜多氏と毛利氏との間に和睦が成立すると、宇喜多氏を仇敵とみなす家親の子元親は反発し、そのころ中国地方に進出してきた織田信長に通じると、毛利氏から離反しました。そのため、松山城は毛利輝元と宇喜多直家から攻められることになったのです。三村方と毛利・宇喜多方による一連の戦いを備中兵乱といい、松山城はその争乱のなかで要塞化していきました。

三村元親が織田信長に通じたことを知った毛利輝元は、天正2年(1574)、叔父にあたる小早川隆景に命じ、備中国に侵攻させました。小早川隆景率いる毛利軍は、三村氏の支城を落としながら、ついには松山城を完全に包囲します。抗戦の不利を悟った三村元親は城を脱出し、城外で自害しました。ここに、三村氏は滅亡したのです。


江戸時代に建てられた天守

子松山、天守、備中松山城
小松山に築かれた天守

三村氏の滅亡後、松山城は毛利氏の支配下におかれます。しかし、その毛利氏も慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに敗れ、備中国から去ることになりました。その後、松山城には、徳川家康の命により、小堀正次・政一父子が代官として入っています。ちなみに、遠江守を称した子の政一は、小堀遠州の名でも知られる作庭家でもありました。この小堀氏が代官だったとき、山上では天守や櫓などの建築が進められ、山麓には御根小屋とよばれる居館が整備されました。山麓に居館を構えたのは、山上での生活は不便だったからです。

小堀氏の時代では、山上の建物が完成することはありませんでした。その後、天和元年(1681)から3年をかけて水谷勝宗が大改修を行い、現在の姿になったとみられています。天守は二重二階で、現在は独立した天守となっていますが、本来は隣接する平櫓から渡櫓を経由して入ることになっており、直接、侵入できない構造でした。また、窓は格子窓になっており、外部から内部が見えにくい反面、内部からは外部が見えやすいようにしているなど、実戦を想定していたこともわかります。

備中松山城、格子窓
城外からの視認性は悪い格子窓

天守をはじめとする建物は、明治維新後に払い下げられ、撤去されることになりました。しかし、城があまりにも高所にあったことから取り壊すにも費用がかかるとの理由で放置されることになったのです。その後、荒廃を憂う有志の運動により保存が決まり、解体修復されることとなりました。現在は、重要文化財に指定される天守・二重櫓などが現存するほか、櫓や門が復元されるなど、当時の威容を取り戻しつつあります。


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小和田泰経(おわだやすつね)
静岡英和学院大学講師
歴史研究家
1972年生。國學院大學大学院 文学研究科博士課程後期退学。専門は日本中世史。

著書『家康と茶屋四郎次郎』(静岡新聞社、2007年)
  『戦国合戦史事典 存亡を懸けた戦国864の戦い』(新紀元社、2010年)
  『兵法 勝ち残るための戦略と戦術』(新紀元社、2011年)
  『別冊太陽 歴史ムック〈徹底的に歩く〉織田信長天下布武の足跡』(小和田哲男共著、平凡社、2012年)ほか多数。

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