お城の現場より〜発掘・復元最前線 第18回【太田金山城】登城者を圧倒する大規模な石垣復元

城郭の発掘・整備の最新情報をお届けする「お城の現場より〜発掘・復元・整備の最前線」。第18回は、登城道や大手虎口などに復元された堅牢な石垣が人気の太田金山城。太田市教育委員会文化財課の島田孝雄さんに、関東の山城には石垣は存在しないという定説を覆した大規模な発掘復元事業を紹介していただきます。

刀水橋、太田金山城、利根川
利根川にかかる刀水橋から見た太田金山城

2000年以前の調査と第1期整備

太田金山城は、市街地に隣接する金山丘陵(標高:239m、面積:約380ha)に築かれた山城。中央に本丸(実城)を据え、そこから北・西・南の三方にのびる尾根上に北城(坂中城)、西城、八王子山ノ砦をそれぞれ配置し、城の縄張は約300haにも及ぶ。1934年に国史跡に指定(2002年に追加指定)され、史跡面積は97.8haである。

太田金山城、縄張図、発掘調査
太田金山城縄張図。太田金山城では現在も発掘調査が続いている(平成29年現地説明会資料より)

調査は、1992年の実城域にある日ノ池からはじまった。1994年からは、「通路形態の復元」(第1期整備)を目的に、日ノ池周辺から物見台周辺まで約250mの範囲を対象に調査を実施している。

太田金山城、大手虎口、日ノ池エリア、発掘調査、石垣、復元
第1期整備が行われた大手虎口から日ノ池エリア。発掘調査に基づいて石垣が復元された

その結果、「石を多用した山城の景観」が明らかとなり、「関東の山城は、石垣を持たない」というそれまでの定説を覆す結果を得られた。整備は、遺構の顕在化を中心とするわかりやすい整備とその公開を主眼に置き、大手虎口、日ノ池・月ノ池、南曲輪、物見台、馬場曲輪とそれらを結ぶ石敷き通路の復元を行った。

太田金山城、大手虎口、石垣、通路
復元後の大手虎口。石垣が延々と続く通路は訪れる者を威圧する

太田金山城、物見台、石垣、柱穴、遺構表示施設
物見台付近の石垣。物見台は発掘調査で確認された柱穴を表示する「遺構表示施設」が造られた

2004年からの調査と第2期整備

第2期整備では、「日常生活(現代)から歴史的空間(中世)へ」、「市街地から自然へ」を主眼に導入路や広場などの整備が行われた。具体的には2009年のガイダンス施設開設と、施設から第1期整備範囲である日ノ池や物見台に誘導するための2つの園路(可能な限り金山城の通路跡を通るもので、一部は復元)の整備である。

1つ目の園路は、西城見附出丸から物見台に至るまで約550mの間(園路の途中には既設駐車場もある)だ。この園路では、確認調査の成果に基づき見附出丸のほか、西矢倉台西の新・旧通路、堀切底の石敷き通路、桟道などが整備されている。

もう1つの園路は、ガイダンス施設から大手虎口まで続く大手道。調査では大手道のほか、大手虎口付近で多数の防御施設が確認されている。

太田金山城、大手虎口周辺、防御施設、大手道跡、
大手虎口周辺の防御施設。オレンジ色の太線で示されているのが大手道跡(平成29年現地説明会資料より。推定範囲含む)

特に注目されるのは、大手虎口の手前90m(大手虎口との比高差は約25m)の位置にある延長約40m、高さ約2m(創建時は3m以上と考えられる)の石垣(図中①)。大手道はこの石垣下を迂回して進むが、その60mほど先(大手虎口との比高差は約10m)には延長約20mの石塁(図中②)が行く手を遮り、さらにその奥には大手虎口・三ノ丸・南曲輪の石垣群が視界に入る。このように、大手谷の谷底沿いにある大手道を進むと、突然、幾重にも重なる巨大な石の壁が立ち塞がり、登城者に覆い被さるという威圧感を与えるのである。

太田虎口、大手道、石垣、水路跡、遺構
上図の「29−1トレンチ」で確認された石垣。大手道からは石垣や水路跡と見られる石敷き遺構などが発見されている

この大手道はいまだ確認調査の途中であるが、整備が完成すれば、難攻不落を誇った金山城の雄姿をよみがえらせることができるだろう。


太田金山城(おおたかなやま・じょう/群馬県太田市)
太田金山城(新田金山城)は、文明元年(1469)に新田氏の後裔である岩松家純(いわまついえずみ)が築城。その後、下剋上により家宰の横瀬氏(のちに由良氏と改姓)が城主となる。天正12年(1584)に小田原北条氏の調略によりその支配下となるまで、上杉氏・武田氏などの攻撃を受けるが落城することはなかった。天正18年(1590)北条氏の滅亡後、廃城となる。

執筆/島田孝雄(太田市教育委員会文化財課)

写真提供/太田市教育委員会

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