お城の現場より〜発掘・復元最前線 第17回 【山形城】本丸跡に埋まっていた最上氏時代の大量の金箔瓦

城郭の発掘・整備の最新情報をお届けする「お城の現場より〜発掘・復元・整備の最前線」。第17回は、山形県教育委員会の五十嵐貴久さんに、伊達政宗の伯父・最上義光が居城とした、山形城の本丸御殿跡の調査について紹介していただきます。最上氏改易後に大改修された山形城から、義光時代の遺構の姿を探ります。

山形城、門、櫓、復元
山形城は1980年代後半から門や櫓などの復元が進んでいる

最上氏の遺構が残されていた本丸跡

山形城は戦国時代から近世山形藩の居城として最上義光(もがみよしあき)により整えられた城で、本丸・二ノ丸・三ノ丸が同心円状に囲む城跡。1986年に現存する二ノ丸内が史跡指定を受け、二ノ丸東大手門が1991年に復原されている。その後、本丸復原整備事業に伴う発掘調査がすでに20年以上にわたり続いており、調査成果をもとに本丸一文字門石垣・高麗門枡形土塀・本丸堀土塁等が少しずつ復原整備されてきた。かつて本丸には「本丸御殿」が存在していたが、明治期の旧陸軍連隊配備に伴い旧地表も削平が及び、礎石などの遺構は全く存在していない。そこで、御殿の配置を探るべく井戸跡などの地下遺構を探る発掘調査を実施された。

山形城、現状図、調査
山形城の現況図。濃い水色で着色された箇所が今回の調査区域だ

山形城は、義光が江戸初期に整えた縄張が基本形だが、元和8年(1622)に最上氏が改易され、譜代大名の鳥居忠政が入ると大改修が行われる。発掘調査では、こうした改修の前後の姿が層位的に徐々に明らかになり、現況の城跡の地下には最上氏時代の江戸初期の山形城が保存されていることが確認された。

本丸跡から出土した金箔瓦

本丸跡の一部に1955年頃にあった野球場により深く壊されていたが、その地層を除去すると、そこからは最上氏時代の遺構・遺物が発見された。調査区の中央では幅4m、長さが南北延べ30m以上、深さ現存で約1.8mの野面石垣を伴う堀跡が確認される。内部は上層と下層に二分される堆積層で、下層には木製品・中国産染付皿・瀬戸美濃灰釉皿など16世紀後半~17世紀初頭期の遺物群が含まれ、上層には瓦片とともに化粧漆喰(厚さ1~2mm)を持つ壁土材・炭化材と焼土粒がどれも極めて大量であるとともに、火災等による被災一括廃棄痕跡だった。

山形城、遺構内部、断面図、陶磁器
遺構内部の断面図。火災瓦一括廃棄層には大量の瓦や陶磁器が埋まっていることがわかる

この堀跡からは金箔瓦も大量に発見された。その種類は鯱瓦・鬼瓦の他、大棟を飾る輪違い・菊丸や軒丸・軒平瓦である。鯱は尾ヒレの一部や胸ヒレに金箔があり、鬼瓦は顔部分の形象物(桃・花弁・器物等)とその周縁輪郭部分に金箔がある。特に鬼瓦は大名家家紋ではなく、吉祥文が使われているという特徴があった。軒丸は「山」をかたどった山文軒丸で、山部分と周縁に金箔が施されている。軒平は中心が「宝珠文」だが、周縁のみの金箔瓦であった。瓦は燻瓦で黒色だが、半数以上は火災により赤褐色~橙色に変色していた。

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出土した沢瀉(おもだか)紋金箔鬼瓦。葉の形が鏃に似ている沢瀉は「勝戦草(かちいくさぐさ)」とも呼ばれ、武家に好まれていた

文献史料では山形城本丸の火災を示すものが僅かに存在していたが、記載年が不明でこれまでは慶長4年(1599)と同7年(1602)の二つの説があった。一方、義光による山形城改修が文禄元年(1592)の史料に認められることから、豊臣政権期(1590年代)に義光は「漆喰壁建物・金箔瓦」の近畿圏の城郭建築要素を山形城に取り入れていたと考えられる。

山形城、遠景、調査
調査現場の遠景

今後、本丸跡は本来あった御殿跡の配置と、発掘調査の成果をもとにした整備を計画している。


山形城(やまがた・じょう/山形県山形市)
南北朝期の延文2年(1357)に足利氏一門の斯波兼頼(最上氏)により築城される。その後最上義光の文禄年間(1592〜94)に平城の山形城を整える。しかし、元和8年(1622)に最上氏は改易となり、鳥居忠政により大改修が行われた。城跡は二ノ丸の堀土塁と城門の石垣が現存する。

執筆者/五十嵐貴久(山形県教育委員会)

写真提供/山形市教育委員会

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