【日本100名城・松山城編】激戦が生んだ、市民に受け継がれる名城

今や、松山を代表するシンボルとなった松山城。日本100名城に選定されています。城は本来武士のモノでした。しかし、いつの間にか市民の手によって、城は現在までに受け継がれています。その理由は何だったのでしょうか?築城した加藤嘉明と今まで城が歩んできた苦難の道のりを見ていきましょう。

松山城、本壇、天守曲輪
「本壇」と呼ばれる松山城天守曲輪、現存の建物は後世の再建です

築城の名人、加藤嘉明

『坊ちゃん』や『坂の上の雲』など、松山の舞台にした小説・映画には必ずといっていい程、松山城が出てきます。城は市民にとって馴染み深いスポットであり、県を代表する観光拠点となっています。そこで城は何故市民に慕われているのでしょうか?そこには築城から現在までの道のりを見る必要があります。

松山城の築城は文禄4年(1595)、加藤嘉明が伊予に入った事からはじまります。

嘉明は、加藤清正や福島正則と同じ「賤ヶ岳の七本槍」の1人に数えられる猛将として有名です。文禄・慶長の役においては、自ら水軍を率いて朝鮮半島へ渡り活躍した事により豊臣秀吉から伊予に封じられました。当初は海沿いの正木(松前)城に入りましたが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いにおいて、東軍についた事で幕府から20万石を加増され勝山に築城を始めました。

当初勝山は、2つの頂を持ち比高が100m以上もありました。近世城郭を築く上でかなり高所にありますが、山頂からは松山平野や伊予灘を一望する事ができた事でしょう。

数々の激戦を乗り越え、その経験を嘉明は築城に活かしていきます。そう彼は、清正や藤堂高虎と並ぶ、築城の名人でもありました。

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この城は櫓が多く、その数はなんと復元されたのも含めて22棟に上ります!

現存する天守は江戸時代後期の再建で、築城当初五重の天守が聳えていたと伝えられています。天守周辺は「本壇」と呼ばれ、天守と櫓が渡櫓で連結した事により、本丸から独立した天守曲輪で成り立っています。

築城当初の様子を伝える史料に、幕府のスパイ(密偵)が記録した「予州松山本丸図」や「松山城図」(共に甲賀市水口図書館所蔵)があります。2つの絵図によると、本壇中央に池が表されていました。用途は篭城に対する備えで、防火や飲料を兼ねていたと考えられます。五重の天守があったが地盤が悪かったので三重に替えたという話がありますが、建物よりも池があったと考える方が妥当かも知れません。いずれにせよ池があった事は確かで、篭城を経験した嘉明の知恵が活かされたのです。 

築城からしばらくたった後、改修により現在残る天守の原型が完成しました。通常天守内部には台所など篭城できるように設備が設けられていますが、ここでは用意されていません。おそらく改修された際に、取り外されたのでしょう。

次に、麓から本丸へ向かう途中で筒井門に差し掛かります。この門を通るためには、今まで登ってきた道から180度近く折り返さないと入れません!しかも門の脇に隠門が備えられ、守る側は攻めてきた敵に奇襲を仕掛ける目的がありました。

そしてもう一つ松山城の特徴としては、山上から麓へ延びる登り石垣です。石垣は城山の東西に延び、麓の二の丸御殿を囲うように延びていました。

この石垣は、外敵の侵入を阻む為に用いられました。これは、文禄・慶長の役において日本軍が半島で築城した倭城でよく使われた技法です。

このように、嘉明が数多くの合戦での経験を活かした築城は、実戦的要素が随所に取り込まれ、完成まで実に25年以上もの月日が費やされました。
 
松山城、筒井門、隠門
筒井門(写真右)、フレームアウトしていますが写真右に隠門があります
 
松山城、二の丸御殿、石垣
二の丸御殿から見た登り石垣(写真中央)、石垣が山上まで延びています

武士から市民に受け継がれる名城

しかし、嘉明は完成を見る事もなく松山を去ります。彼に代わって蒲生忠知が新城主として入り、ここでようやく城が完成しました。長かったですね~。さらに、寛永16年(1639)には松平定行が入城しました。

松平家の松山入城、これは城にとって苦難の始まりでもあったのです…。

天明4年(1784)、天守が山上の大書院も含め落雷により焼失しました。天守の再建は文政3年(1820)まで、またなくてはなりませんでした。

作業は天守以外の建物も行われ、藩主の死去や作業場の火災による中断を挟んで、完全な復旧には安政元年(1854)までかかりました。

そして明治維新、松山城は兵部省(後に大蔵省)に移管されましたが、災難は続きます。明治3~5年(1870~72)には二ノ丸・三ノ丸が焼失、さらに戦前には放火や米軍による空襲により、山上の小天守も含め多くの櫓・門が焼失してしましまいました。

城の復興は昭和43年(1968)に小天守が完成したのを皮切りに、平成4年(1992)にかけて現在の姿に戻りました。このように、建物が早い時期に再建ができたのは、建物の図面が多く残っていた事が挙げられます。また復元には当時、他の城で行われていた鉄筋コンクリートを使わず木造で行われた事が、市民に慕われる理由に繋がったかも知れません。

近年に天守が修理された際、建物の裏板に落書きが見つかりました。その落書きは、丁髷頭に裃姿をしていました。これは江戸後期に再建した時に描かれたと考えられ、現在一般に公開されています。

そして市制100周年を記念して、麓にあった二の丸庭園の一部が復元されています。この場所には、日露戦争で捕虜となったロシア人兵士が収容されていました。そこで、捕虜と日本人女性とのロマンスが…、二の丸は現在「恋人の聖地」に認定されています。

加藤嘉明自身の経験に基づき築かれた松山城は、武士から市民へ城を受け継がれた結果、日本を代表する名城に繋がったのでした。
 
松山城、二の丸庭園、ロシア人捕虜、収容所
再建された二の丸庭園。日露戦争時、ロシア人捕虜の収容所がありました

関ヶ原の戦い後の慶長5年(1600)以降に、加藤嘉明が勝山に築城を開始。自身が文禄・慶長の役等にて会得したノウハウを築城に活かす。後に松平定行が改修等を経て現在の姿に。

形式  :平山城
場所  :愛媛県松山市丸の内
アクセス:JR松山駅から伊予電鉄「大街道」を下車して、徒歩5分

執筆/福永素久(ふくながもとひさ) 
1981年生、徳島県出身九州在住の城郭ライター。雑誌『歴史群像』「戦国の城」コーナー(学研プラス)・論文などに多数執筆。過去に徳島県中世城館調査の調査員や歴史研究を進める一方で、各地で城郭関連講座の講師などを勤める。相撲観戦が趣味。

※歴史的事実や城郭情報などは、各市町村など、自治体や城郭が発信している情報(パンフレット、自治体のWEBサイト等)を参考にしています

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