2018/08/30
お城の現場より〜発掘・復元最前線 第15回 【備中松山城】総石垣造りの池の正体を探る
城郭の発掘・整備の最新情報をお届けする「お城の現場より〜発掘・復元・整備の最前線」。今回は、高梁市教育委員会社会教育課の三浦孝章さんによる、備中松山城の最新情報をお届け! 現存天守を有する天空の城には、25mプールほどの石垣造りの「大池」が存在します。明らかに人造の池は一体何のために造られたのか? 城跡を管理する高梁市が実施した、大池の水を抜いた調査で明らかになったこととは?
雲海に浮かぶ備中松山城
天空の城に存在する謎の池
備中松山城は、高梁市の市街地の北側に位置する標高480mの臥牛山(がぎゅうざん)に築かれた山城である。延応(えんおう)2年(1240)に築城され、全山に中世城郭が拡大されたが、一部が近世城郭に改修され、明治4年(1871)の廃城に至る。天守が現存する国内唯一の山城と知られ、1941年に天守・二重櫓などが旧国宝(のちの重要文化財)に指定された。また1956年には、主要遺構である下太鼓の丸跡・中太鼓櫓跡・小松山城跡・相畑城戸跡・天神の丸跡・大池・大松山城跡・切通及び番所跡の8か所が史跡に指定されている。
上空から見た備中松山城
備中松山城の史跡位置
高梁市では、史跡備中松山城跡の保存整備を継続的に実施しており、1994~1996年度には本丸の復元整備を行い、往時の姿を想像できるようになった。整備は来城者が最も多く訪れる天守がある小松山城跡を中心に実施していたが、現在では、小松山城跡よりも北側の中世城郭部分の整備に着手しており、2016年度からは「大池」の保存整備を行っている。
備中松山城本丸(右奥が天守、手前の二棟が復元)
「大池」は、大松山城跡と天神の丸跡の間の谷部(標高443m付近)に築かれた総石垣造りの池で、地元では「血の池」や「首洗いの池」と呼ばれ、刀や首を洗ったとの逸話も伝わっている。
水を抜いて見えた大池の正体
大池周辺は過去の台風により植林されていた樹木が倒木し、根が残されたままの状態であったため、根などを除去する環境整備を実施しており、並行して池の規模や構造把握などを目的とした発掘調査を行っている。なお、池の水を抜いたのは初めてである。
調査前の大池
水を抜いた後の大池
これまでの発掘調査において、①池の規模と構造、②排水口である「木樋(もくひ)」を確認することができた。
調査範囲の配置図
①の池の規模と構造は、長辺23m、短辺10m、深さ4.3mの長方形の総石垣造りであり、石垣の積み方や使用石材から何回もの修理痕跡を確認することができた。また池底は、地山の花崗岩を削りだして成形しており、山に降った雨が花崗岩を伝い、大池に溜まる構造となっていると考えられる。規模の確定により、大池は「城郭における貯水池としては国内最大」であることが判明した。
池底の調査状況
②の木樋については、池の内部と池の外側の調査区において確認できた。木樋を使い、池の水が排水されていたと思われるが、具体的な水の排出方法については、現段階では不明である。木樋は、蓋と身から構成されており、丸太状のものを分割している。外側の調査区で検出した木樋は、木樋の連結部であり、ソケット状に加工したものを差し込んだ上で鎹(かすがい)によって連結している状況を確認することができた。
池の内側で検出された木樋
外側の調査区で検出した木樋(上)と木樋の構造模式図(下)
発掘調査によって規模や構造が判明した一方、労力と費用をかけて修理し維持してきた目的、用途などについては不明のままである。発掘調査と並行し、文献や絵図の調査を実施することで糸口が見えないかと考えているところである。
通常、備中松山城への来城者は天守を目的としており、大池などがある中世城郭部分への来訪者はほとんどいない状況であったが、近年の山城ブームもあり、少しずつ増えつつある。こうした中、山中にある目的不明の大規模な池(大池)が来城者の目的の一つになるよう、数年をかけて発掘調査を実施し、保存整備・環境整備を進めていく予定である。ぜひ見学いただき、大池の謎について考えをめぐらせていただければと思う。
大池は調査後、再び水を入れ周辺の整備を行った。写真は、2018年7月の豪雨後に撮影された大池(2018年7月9日撮影)
備中松山城(びっちゅうまつやま・じょう/岡山県高梁市)
備中松山城は、現存天守12城のうち唯一の山城であることから「天守の残る唯一の山城」と言われる。延応2年(1240)の築城を機に、臥牛山全山に砦が築かれたが、一部が近世城郭に改修されており、中世と近世の城郭遺構が混在する。秋から冬には、雲海に浮かぶことから「天空の山城」とも呼ばれている。
執筆・写真/三浦孝章(高梁市教育委員会社会教育課)