2018/08/30
お城の現場より〜発掘・復元最前線 第13回 【肥前名護屋城】明らかになる幻の城の実態
日本全国で行われている城郭の発掘調査や復元・整備の状況、今後の予定や将来像など最新情報をレポートする「お城の現場より〜発掘・復元・整備の最前線」。今回は、佐賀県立名護屋城博物館学芸員 堤英明さんによる、豊臣秀吉が築いた幻の城・肥前名護屋城の本丸や諸大名の陣跡の発掘調査の最新情報をお届けします。
名護屋城跡本丸御殿跡の修景整備
玄界灘を望む名護屋城跡(2017年度撮影)
豊臣秀吉の朝鮮出兵の拠点として築かれ、その死後に廃城となった幻の城・肥前名護屋城では、2013年から2022年までの保存整備事業計画に基づいて、本丸御殿跡の修景整備を実施している。これまでの発掘調査では名護屋城跡本丸において、多数の建物跡(御殿跡)が確認されている。また、名護屋城跡の他箇所や陣跡において建物跡周辺や通路部分で特徴的にみられる玉石敷き遺構とともに、石組み側溝等も確認された。
これら発掘調査の成果をもとに、本丸御殿跡修景整備では御殿建物の推定範囲を芝張りで、建物周辺で確認された玉石敷きを新規玉石で表現している。これにより、建物の範囲や広がりを見学者がよりわかりやすくなるように整備している。
新規玉石で表された本丸御殿跡(2017 年度:⻄から)
水手通路で確認された破城の痕
名護屋城の主要な⻁⼝の1つである水手⼝(みずのてぐち)から本丸までをつなぐ水手通路において、将来的な環境整備の基礎資料を得ることを目的に、発掘調査を実施している。現在の水手通路は後世に敷設された管理用道路のため、往時の景観や導線をとらえることは難しいが、発掘調査によりその一端が明らかになりつつある。
水手通路で発見された石組み側溝(2017年度:⻄から)
2016・2017 年度の発掘調査では、通路南側の地表面下に石垣の残存を約1m確認し、水手曲輪を構成する勾配が緩やかな打込接高石垣の存在を想定することが出来た。
また、通路に付帯する石組み側溝を検出し、今後は通路面の実態解明が期待される。このほか、側溝上で破砕された瓦層、築石、裏栗石層が順をなして堆積した状況を確認したことから、水手通路での破却(人為的な石垣の破壊)の様子も確認することが出来た。
後世に積み直された「太閤井⼾」
名護屋城跡の内容確認のための基礎調査として、2016 年度から名護屋城跡太閤井⼾(地元では、「タンカシランイド(⽥の頭の井⼾)」とも呼ばれる)の発掘調査を実施している。調査の結果、井⼾を取り囲む石垣の⼤部分は後世の積み直しによるものと想定されるほか、井⼾曲輪においても後世の造成の影響を強く受けた状況が確認された。また、井⼾内部の土砂を浚ったところ、井⼾への取水⼝と排水路・溜桝と考えられる石組みが確認でき、井⼾の全体像が徐々に明らかになりつつある。
太閤井⼾跡を囲む石垣の調査状況(2016年度:北から)
石塁や虎口が確認された「島津義弘陣跡」
名護屋城跡とともに、肥前名護屋へ参陣した主要⼤名の陣跡についても、その内容を確認するため、基礎調査を継続している。2016年度からは波⼾岬南⻄端に位置する特別史跡「島津義弘陣跡」の踏査・発掘調査を実施している。
島津義弘の陣屋は、波戸岬南西の突出した丘陵上に築かれていた(2016年度撮影:⻄から)
島津義弘陣跡は、南北約150m、東⻄約300mの広⼤な陣跡であり、その中心である主郭部は一辺約50mの正方形状を成している。これまでの調査により主郭部にはいくつかの微地形の変化が確認されており、内部はさらに空間の細分があったことが想定されている。また、発掘調査により、主郭部の⻁⼝空間とみられる石塁の切れ目や、玉石の散在する硬化面を検出している。
島津義弘陣跡では、このほかに主郭部南辺石塁で出角が確認された。
島津義弘陣跡の主郭南面で確認された石塁出角(2016年度:南⻄から)
肥前名護屋城(ひぜんなごや・じょう/佐賀県唐津市)
⽇本国内を統一した豊⾂秀吉が、⼤陸へ侵攻しようとした「⽂禄・慶⻑の役(1592-1598)」で、国内拠点とされたのが肥前名護屋である。その中で、豊⾂秀吉の「御座所」として名護屋城は築かれた。また、名護屋には全国から集結した諸⼤名の陣所が多数作られ、現在名護屋城跡を中心に半径約3㎞の範囲に約150か所の陣跡が確認されている。
執筆者/堤英明(佐賀県立名護屋城博物館学芸員)
写真提供/佐賀県立名護屋城博物館