お城の現場より〜発掘・復元最前線 第12回 【飯盛城】石垣造りの中世山城の実態に迫る発掘調査

日本全国で行われている城郭の発掘調査や復元・整備の状況、今後の予定や将来像など最新情報をレポートする「お城の現場より〜発掘・復元・整備の最前線」。今回は、大東市教育委員会生涯学習課 黒田淳さんによる、安土城以前に築かれた本格的な石垣造りの城、飯盛城(大阪府大東市・四條畷市)の実像に迫る発掘調査の最新情報をお届けします。





三好長慶が居城とした大阪府下最大級の山城

飯盛城、赤色立体地図
飯盛城の赤色立体地図(測量・図化:アジア航空株式会社/大東市教育委員会・四條畷市教育委員会提供)

飯盛城跡は大東市・四條畷市にまたがる標高約314mの飯盛山に築かれた山城で、城の範囲は東西約400m、南北約650mと推定され、東は権現川に刻まれた深い谷、西は急峻な斜面によって守られている。

大東市と四條畷市では、2015年度から飯盛城跡の国史跡の指定に向けて取り組んでおり、2016年度からは飯盛城跡の規模や構造を明らかにするために測量調査(航空レーザー測量)、分布調査、発掘調査などを実施している。

「千畳敷」「南丸」の調査

大東市域では、2016年度に城中最大の曲輪「千畳敷」の調査を実施した。遺構の残り具合は良くなかったが礎石が発見され、茶道具(風炉)や土師器皿、瓦質土器が出土している。

千畳敷、飯盛城
2016年度千畳敷の調査

2017年度は「千畳敷」に加えて土塁が良好に残る「南丸」の調査を実施した。「南丸」では地山の岩盤を削り出し、その土で盛土をして平坦面を広げ、曲輪を造成しており、土塁も同じように地山の岩盤を削り出して形成されていることが明らかになった。また焼土層が確認され、その中からは土壁塊が出土していることから、「南丸」には土壁の建物が存在していたことが判明した。

「千畳敷」においても同様に地山を削った土で盛土をして、平坦面を広げているが、盛土の深さは2mを超え、曲輪を造るためかなり大規模な造成工事がなされていたことが明らかになった。

南丸土塁、飯盛城
2017年度南丸土塁の調査

「御体塚」石垣の調査

飯盛城は東側斜面に石垣が多く見られる。城域の北部にあたる四條畷市域は、痩せ尾根のため曲輪自体は規模が小さいものの石垣が多く残り、特に三好長慶が仮埋葬されたという伝承のある「御体塚」は、東側斜面を取り巻くように石垣がある。四條畷市域では、2016年度・2017年度に「御体塚」周囲の石垣とそこから東へ派生する尾根に残る石垣の調査を実施している。

石垣はほぼ垂直に近い角度で、花崗岩の自然石を5~8段積み上げるもので、高さ約3m近くに達するものもある。石垣の出現期のものとされ、信長が安土城を築く前のものとして注目されている。

御体塚、飯盛城、石垣
御体塚の周辺石垣(四條畷市教育委員会提供)

分布調査により新たに発見された石垣もあり、今後さらに増える可能性が高い。飯盛城は先進的に石垣を多用した山城であったことがわかってきた。

2018年度で調査は一旦終了する。課題としては、レーザー測量や分布調査、確認調査の成果を踏まえ、飯盛城の範囲を確定することが急務である。


飯盛城(いいもり・じょう/大阪府大東市・四條畷市)
河内平野を西に望む飯盛山の尾根を利用して築かれた山城。永禄3年(1560)、畿内を制覇した三好長慶が芥川山城から移り、居城とした。長慶がいたのは僅か4年であるが、ここが政治・文化の中心となった。彼はキリスト教の布教に寛大で、宣教師が度々訪れた。73名の家臣がここで洗礼を受け、河内キリシタンの興隆へと繋がった。

執筆者/黒田淳(大東市教育委員会生涯学習課)

写真提供/大東市教育委員会

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